大宜津比売と妣の国〜そして家島。海人族の足あと
どうも、谷川ウイルスとやらにかかってしまったようです。(^^;)
谷川健一氏著書内、
阿波ー粟の信仰と海人族の足音より
『 淡路は阿波への道である。
淡路から阿波へ渡るには、粟の水門と古く呼ばれた鳴門海峡を横切らねばならない。
私がこの海峡をとおったとき、汽船はかなしげに汽笛を鳴らし、卓上の瓶の液体は波立った。
そして冬の荒れた海の果てに、桃色の夕焼けが凝っていた。
私は今も二千年まえも変わらぬ自然の中に、粟の女神であるオオゲツヒメのほのかに大きな肉体を感じた。
阿波への旅は私自身に宿る計り知れないほど古い記憶を遡行することであった。』
ああ、なんとも言えぬこの表現…
四国にまだ橋が架かっていなかった頃の記憶がある私には、
この文章に重なり懐かしく泣きそうになる情景が見える。
学生の頃の故郷への帰省時、フェリーの甲板から見える山並みが薄ピンク色の夕闇に溶け込む。
その山波の景色が近づいてくるのを甲板からずっと見ていた。
和歌山から小松島までの2時間のフェリーだった。
海を渡る儀式のような…耐える数時間の終わりに、
やっとまた帰ってきたと、
母の懐へ迎え入れられるような安心感に包まれていた。
海を渡る儀式のような数時間…
フェリーに乗ると乗客はまず自分の場所を確保して寝ていた。
どんなに船が揺れようと、とにかく着くまで寝る…
家島神社付近で感じた不思議な体感が思い起こさせたのは、この著者の文章だった。
この世とあの世の境を感じるような、なにか。
誰もいないのに、たくさんの目に囲まれてヒソヒソとささやき声が今にも聞こえてきそうな、、
そんな空気。
谷川氏が阿波への旅で阿南の椿泊を訪れた時のこと。
橘湾入り口近くの椿泊の先にある舞子島を書いた文章の断片が頭の中によぎった。
舞子島は埋葬のための島である。
海人族には湾の入り口の島に首長を埋葬する習慣があったようなのだ。
『ー前略ー
舞子島こそは海上他界である。その島の砂嘴に死体をさらす風習はとおく古代の海島古墳にまでさかのぼれることを物語っているのである。海中にそそり立つ奇怪な死人の島のすがたは、私を神話の世界にまでつれ去ってゆく。
ー後略ー』
播磨国風土記の光田先生も、大きな川の専有権を持つ部族、海と川の支配者一族の祖先を祀る場所が上流にあり、
その川の河口にある島は一族の葬送の場ではなかったかとおっしゃっていた。
揖保川の上流にある伊和神社、そしてその河口にある家嶋神社。
その意味とは何だろう。
帰ってきて、この家島行きの写真をFBに投稿すると、磐座ツアーにてお世話になった平津氏より家島についてコメントを頂いた。
ここよりまだもう少し上に上島まで展望できる場所があったようで。
平津氏のご研究のサイトを拝見すると、
やはりこの家嶋神社付近には怪しい磐座など多々存在するらしい。
…これは、もう一度行かなくては。
今後につながる考察のために、
平津様のサイトミステリースポットを添付させていただきました。
この場を借りまして平津様に感謝申し上げます🙏
http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/kounai/kounai.htm
この世と神の世の境を歩く…家嶋神社
http://aihanum.hatenablog.com/entry/2016/11/15/122520
こちらの続きです。
延喜式内 名神大社
家島神社
御祭神 大己貴命 少名彦命 天満天神
例祭日 7月24日・25日
沿革
社伝によれば、家島という地名は、神武天皇が大和へ向かわれる途中、当地に御寄港になられたところ、港内が大変穏やかで、「あたかも家の中にいるようで静かだ」として、名付けられたとある。、
家島神社は、この時、天神をお祀りし海上安全と戦勝を祈願されたのが始まりとされている。
又、神功皇后は、三韓門出に際し、天神に祈願されたところ全山がにわかに鳴動したのて、こので一帯をゆつるの山と呼ばれたともある。
古くから、家島の地は、瀬戸内航路の要衝として栄え、万葉歌人達もいくつか歌を残している。
菅原道真公が参拝されたおり、境内入り口の岩場で詩を書かれたといわれ「詩を書き石」と呼ばれて現存している。後に菅公は、合祀されることになった。
当神社は、家島諸島の総鎮守であるとともに、播磨灘を守護する大神様で、更に国家鎮護の神としで承和7年(840)官社となり、醍醐天皇の延喜の制には、式内名神大社に列せられ今日に至っている。
社頭掲示板
この参道がその…境だと、
帰ってきて調べて知ったが、
なるほどの雰囲気でした。
特に正面の壁のような石段…
そして、上がった所からさらに奥の拝殿への参道が…
由緒
当神社は、神倭磐彦命(即位して神武天皇)御東征の砌り、御寄港室の内の如く静かなるを以て家島と名付け、天神を祀り、皇師の武運長久と海上安全を祈願し給うとぞ、又神功皇后三韓御門出の時天神を祀り給ふに山中ゆりければ、ゆるの山と古歌にもよまれ、朝廷の御崇敬篤く、第四十八代称徳天皇天平宝字八年三月七日揖保郡福井庄家島の高島に支那福州の賊船襲来屯す、時の国司藤原朝臣貞国下知して、戦勝を祈願せしめ、これを撃退神威毫し衰へず播磨を往来する船舶は、風波の難を祈り、崇敬怠る事なし。故に仁明天皇承和七年六月官社と為り、醍醐天皇延喜の制に式内名神大社となる。此の大神は国土を開墾し、海運、漁業、医薬、禁厭酒造の方法を定め、温泉を開発人畜の病に悩むを助け給ふ最も尊き神に坐す故に、大己貴神は大国様、少彦名命は薬神様として崇めたる。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
この林の中の道…ここが凄かった💦
これだけの快晴の日なのに、
先がうっすらと白く靄っていて。
先へ進むか、後へもどるか
…あの暗い急な階段を降りるのも非常に不安な気分。
行きはヨイヨイ帰りはこわい♪
しかし、進んだ先は素晴らしい景色、ぐるりと360度に限りなく近い見晴らしでした。
淡路島の伊弉諾神宮の方角ははこちらだろうか?
安積…の名をあちこちに見かけました。
さすが海人の土地。
創祀当時は天神一座であったが、のちに大己貴命、少名彦命が合祀された。中世以降、創祀の天神を天満天神と誤つて菅公を祀る天満宮と称してきた。これは鎮座地の天神鼻と云う地名にも伺われ、菅公腰掛岩伝説が残っている。
⭐️⭐️⭐️
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。
古代・中世における社格の一つで、明治に入ってからの神社の格付けにも大きな影響を与えた。
その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列しているため、名神大社と呼ばれるのが一般的。
『延喜式』巻3「臨時祭」の「名神祭」の条、同巻9・10「神名式」(『延喜式神名帳』)に掲示される。いわゆる式内社。
「名神祭」には203社285座、「神名帳」には226社313座が記されており、「神名帳」にあって「名神祭」に見えない名神が23社28座あることになる。理由は諸説あるが、不明。
また、「神名帳」には、各社に「月次相嘗新嘗」「月次新嘗」が付され、何も付されていないものも含め、名神大社の中にも三段階の区別があったことが分かる。
名神大社のない国もあるため、一概には言えないが、名神大社に列している神社の中に、一宮、特に歴史的な一宮となっている神社が多いのも特徴。
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1061785977.html
洞川温泉の不思議な夜 その三
まぁ、なんと、一年半前の事を今描こうとすると…
記憶の詳細がすっこ抜けてしまっている。😢
そう、天川村について直ぐに宿の手配をするために、村の入り口の案内所を訪れたのですが、
「天川村にはあまり戸数がないので、
少し離れますけど洞川温泉には沢山宿がありますし、温泉ですから街の雰囲気も楽しめますよ。」😉
渡された洞川温泉イラスト地図の民宿の中から、家庭的なお宿という事で選んだのでした。
とりあえず泊まる場所が確保できて良かったとホッとして、
洞川の夜の街も観てきたし、
あとは翌朝早朝の天河神社の朝拝へ行くこと。
夏でしたが、エアコンもいらない吉野の山奥です。
そもそも部屋にエアコンはついていない、
それどころか、窓は木の枠に差し込みガラスで、木枠の網戸。
窓に鍵は無い💦
(もう一度部屋の写真…)
まぁ、ここだけ隔絶された部屋の造りになっていて、面する中庭に向き合う部屋は無いようです。
宿の人しか入らない庭。正面に巨大岩。
そしてまさかの、入り口の引き戸についてる鍵は🔑金具でひっかかる超古風なネジでした😨💧
引き戸は木枠の押入れのような軽いふすま…です。
何回か揺すったら開くよ…
幸い鍵付きのコロコロスーツケースできたので、部屋から出ているときは貴重品はスーツケースに入れていました。
こんなとこに1人で来るなんて、私史上凄い!!凄い!!
とテンション上がっていたものの、
初めこの部屋に入った時からものすごい存在感の目の前の岩が気になり出し…
これ、網戸のまま窓開けて寝る??
なんか山からやって来そう、なーんて😅そんな訳ないけど…
閉めたらしめたでこの部屋の圧迫感も…
古い匂いが篭って息が詰まりそう…😢
とりあえず、電気とテレビはつけっ放しで寝よう…
しばらくは携帯に旅の記録を打ち込むことで気を紛らわし、
さていよいよもう12時近く…明日は5時前には起きないとだから、寝なくちゃ
うーん、やっぱり気になる。
ふわっと眠りそうになるとブレーキがかかる。
寝た瞬間、なんか来たらどうする?
窓から不思議な存在か?廊下から悪い人間か??
まーどっちもないやろ…とは思うものの、
意識がなくなることへの緊張感…
ふわっと寝そうになってはブレーキをかけるを何度か繰り返し、
やっぱり1人でこんなとこに泊まるのは二度と止めよう…と見えない存在へのビビリが最大限になっていた時、
奥の部屋から地響きのようなイビキが。
あ、人がいる〜と、妙な安心感でかなりうるさいイビキだけど睡魔の方が勝ち〜〜💤ふわっと寝落ちしそうになった時
ドン‼︎💢‼︎
な、何??何の音?と訳わからず眼が覚める…
そしてまたイビキ、うるさいよーでも、ふわーっと寝そうになったら、バンッ‼︎💢‼︎
これ…イビキに腹立てた人が壁蹴ってる…😰
というのを繰り返し明け方。5時になってなかったけど、寝るのはあきらめ起きました。
やっぱり慣れないことするとあかんわ〜ガックリ…(T ^ T)
起きて上布団を畳もうとすると、
布団を開けた下のシーツの上に枯れ葉のようなものが散らばっています。
真っ白なシーツをかけた軽い夏蒲団の上下。
イヤだ、私の足についてた?
ちょうど番茶のような感じ。写真撮ってないので再現しました💦
いや、昨日は雨上がりでアスファルトの真ん中を歩いて枯れ葉のつくようなとこ通ってないよなぁ…と、
寝返りの時にチリを巻き込んだ?とその辺りを見ても壁土が落ちてることもなく
畳の上も綺麗に掃除されている状態。
???
でも、女一人旅不審がられていたから、汚くして出たくなかった!方に気が行きサッと手で払って、
上布団を綺麗に畳みその上に真っ白な枕カバーの枕を重ねておいた…
そして洗面してお化粧しまして、
荷物を整理して、
さあ出かけようと
もう一度確認するように畳んだ布団を見たら、、、
真っ白な枕の上に…
また…
😨😱😨😱😰😰…
なんで?と聞いても答えてくれる人はいない。
翌朝6時前には出るという事を伝え、
料金は前払い、玄関の鍵を開けておいてくれることになっていたので、
わざわざ民宿の方を探して話す…内容でもない…
けど、なんでーーー💦💦
きたやん来たやん、やっぱりあの山から来たんだよ昨日。。
って頭の中はワンワンなっていますが、
あくまで慌てず、騒がず、
何事もなかったように、
一目散で洞川温泉を後にし、
誰もいない朝靄の中を天河へと車を走らせたのでした。
朝拝が終わったらもう一度帰って来て観光しようと思っていたけれど…
速攻で山を降りました。
こういうのを、阿波弁で、
『おじみそ』💧と言います。
最後だけ…阿波の話😆
ちゃんちゃん♪♪
その三は綺麗な写真がないので、その後〜天河神社の写真を添付。
その日の朝、宿から出たところ。
そして山を降りて吉野川を下る
葛城は賀茂族の地へと続く
イチキシマヒメの涙へと♡
http://aihanum.hatenablog.com/entry/2015/12/02/195645
もひとつおまけのエピソード。
この話、その後時間をおいてポツポツと、ご近所のママ友1人、行きつけの美容室のお兄さん、鞆の浦の友人Mさん、…という順番でおそるおそる反応見ながら話し聞いてもらいました。
どうなん?これって怖い話?
なんでもない?こんなこと?
って、自分で判断がつかなかったのです。
もっのすごい速度で、この土地のこと詳しく調べました…
なんとなく役行者さんのイメージがあったのだけど、
4人目に話した友人が、その枯れ葉の落ちていた場所を言い当てて、そこに見えたイメージを教えてくれて。
この部屋のこの辺りに笠を被った真っ白装束の人のイメージが浮かんだって。
その方が何方かずっと探していました…
一年経ってみて
どうも、空海さんでした。
その友人曰く、
悪い感じじゃないよ。様子を見に来た感じ。。
空海と役行者はずーっとその後も行くとこいくとこ目の前に現れますしねぇ〜
そうだったのかなぁ。。
ほら、この間の六甲山でも。
2015年7月15日☆洞川温泉の不思議な夜その二
去年の話になりますが、
こちら内容はFB投稿より転載。
その三を書いていないままに時が過ぎ、
しかしこの文章を書いたことがきっかけで、
ブログに挑戦してみようとなった思い出の投稿でもありました。
その三をこちらで書いてみようかと思います。
そしてひっそりと、もう最近は写真の記録に過ぎなくなってきたブログですが💦
勇気を出してリンクしてみようかなーっと。
では、その二。写真以外はFB投稿そのまんまです。
(その一は自分のタイムラインから探しきれず、また見つけたら追って投稿します。🙏)
洞川の不思議な夜、其の二。
さて、その話の続きを書いてみます。
目の前に説明のつかない物が突然現れた時、人はどうするのか?
まず、見なかった事にする
なかった事にする。
しかし、また2度目にそれが現れた時には?
逃げる、
その場を一刻も早く去る。
何事も無かったように、
気がつかなかったという振りを自分にもかして。。
。。。。
あの日、突然天川に行こうと思い立ち、かなりの距離を車で飛ばし現地に着いたのはもう3時過ぎ。
天川入り口の観光案内所でもらったパンフレットを頼みに
電話で、夕食なしで構わないからと
できるだけ修験ぽくなく家庭的そうな宿の写真を選んで宿泊を頼む。
妙齢?の女の1人旅?不審がられても仕方ない、、
用意できたのはここですと、
通された部屋は布団部屋のような階段のどん詰まりの板戸の向こう、
一つの布団とちゃぶ台を置いた、鍵もないあまり使っていないような古いままの部屋だった。
部屋に入るなり目に飛び込んできたのは、
開け放った窓の向こうの大きな大きな岩。
まるでご神体のような雰囲気を持つ岩だった。
宿の奥さんは、
大丈夫です、ちゃんと調査されて一枚岩ですので地震でも崩落することはないですよと。
いやいやいや、
これ何ですか?
この向こうに何があるんですか?
と聞きたいけれど
凄い大きさですね、としか言えなくて。
つい最近磐座ツアーに参加した事もあり、
大きな磐座に出逢えるなんて、これもご縁だとありがたいなと少し無理やりに思って眺めていた。
夕食の取れる食堂を幾つか教えてもらって、散歩がてら外に出る。
と同時に滝のような土砂降り。
夕方のニュースでは奈良市内が突然の集中豪雨で冠水だったと。
この雨が流れていったようだった。
平日だし、大雨だし、もう夕方だし、いやそれにしてもまだ午後4時ごろなのに
なのに人がいない、観光客に合わない…
おうどんと柿の葉寿司の夕食を
食堂のランチ時間の終いを延ばしてもらって早めにとる。
陀羅尼助を買い、
雨上がりの湯気のような霧に包まれる誰もいない洞川の街を一人きりで散歩し、川を渡ると、
八大竜王寺。 あ、ここが宿のご主人が行くと良いと言っていた場所だ
中を覗くが、相変わらず人の気配がない上に、おびただしい大小墓石の山が連なる…無理です、苦手(T . T)
池の写真だけ門のとこからパチリと撮影。
夜には蛍が出ると、ぜひ見に行ってと言われたけど、ここ夜1人で来るんですか?まさか?と、さっさと宿へと帰った。
その横にお寺がある。どうもこのお寺の奥があの岩の山っぽいなと
やはりそうなんや、お寺があるやんと、
そこが超有名な修験の場所ともその時は全く知らずにいた。
だって、宿の入り口のポスターで初めて知った。
洞川が役行者所縁の地で鬼の子孫の里だったなんて。
帰ってまだ明るいうちに宿でお風呂に入り、
夜も綺麗だからと勧められて、
提灯が明るく照らす洞川の街を少し歩きに出てみた。
写真のように、またまた街に誰も観光客がいない。。
不思議な空気、、
提灯が明るく照らす洞川の夜の街は本当に人っ子ひとりいなくて、
まるで千とちひろの町みたいで。💦
まぁ、こうやって順に思い出してみると、
この温泉街に来た時から何やら、違う時空間にひとりで迷い込んだような、、
あれは当然の流れだったのかも。。
ふぅ、…長い。続き三にします。
いったい、これ読む人いるのかしら???
播磨国名神大社 家島神社〜海人の島へ渡る
つい先日、急に思い立ち
姫路港から家島諸島へと高速船にて、
播磨国風土記講座でその重要性を知った⛩家島神社を目指しました。
高速船から見える家島神社です。
この風景に一目惚れ。
そしてこの家島神社から冬至の日に太陽が昇る方向にはちょうど、
淡路島一ノ宮、イザナギ神宮があるというのです。
播磨国の名神大社は播磨国一ノ宮伊和神社とこの家島神社の二つのみだそうです。
そういえば
ここにそっくりの神社が阿波にありました…
こちらもご紹介しておきます。
徳島県鳴門市島田島にある阿波井神社。大宜津比売神と天太玉命をお祀りしています。
高速船は約30分で家島の真浦港に着き、
そこでレンタサイクルを1日600円で借り、早速神社のある天神鼻へ向かいました。
湾の内側に沿った島の主要道路に車はほとんど走っていません。
のんびりと穏やかなしかし漁船が沢山⛴⛴
古代から受け継ぐ海を生業とする海人の生粋の漁村だと、少し感慨が深く。。
あちこちに綺麗な生花を祀った祠やお地蔵様が目につきます。
途中の宮浦港の⛩宮浦神社へ。
とても立派な社です。
ここは、滋賀県高島、琵琶湖畔にある白髭神社から勧請された白髭名神。
白髭霊祠があります。
(ここに、猿田彦神がいたとは…👀)
家島では3つの神社へ参詣させていただきましたが、
どの神社も立派な社殿や造り。
熱い信仰の様子が肌で感じられました。
播磨の祭りの壮大さと同じ…
神仏への祈りの厚さ、板の上一枚の危険と背中合わせの漁、安全と豊漁を願う
海幸の人々の神や仏への想いは、
山幸育ちの私には圧倒的なパワーで迫ってきます。
そして、岬の先端の家島神社に到着しました。
海に向かう神社、目の前が波打ち際です。
宝珠に導かれ…六甲比命神社②、雲が岩周辺
そう、この階段を上がった先にあったのは…
雲が岩
法道仙人がこの地で修行中、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたと言われ、紫雲賀岩と呼ばれていたが、略して雲が岩となったようだ。
雲が岩周辺は、多聞寺の奥の院である。六甲カンツリーハウスの南の山頂部に位置する仰臥岩に祀られている神は、
(弁天さまの家来に当たる八大竜王は、俗に「ミーさん」と呼ばれていて、生卵を好む神である。)
海抜913m、六甲最高峰(931m)につぐ高所で、巨石、奇岩累々と重なり合っていて、中国地方の連峰、摩耶、淡路島、瀬戸内海、北神地方の町々を一望でき、裏六甲景観を賞する絶好のパノラマゾーンである。
昔はこの付近も、多聞寺の行場であった。
六甲比命大善神社
雲が岩と心経岩の中間に六甲比命大善神社の社がある。本尊は弁財天である。六甲姫、六甲比女とも言われている。(俗称ヒメさんと呼んで、親しまれている)背面の大巨石がご神体か?
追記、
六甲山はかつて向か津峰、武庫山とよばれ、全山が西宮の廣田神社の社領であった。甲山神呪寺、鷲林寺、ほか多くの六甲山周辺社寺で弁財天が祀られているが、「神呪寺史」によれば、弁財天女は廣田明神、憧賢木巌之御魂天疎向津姫(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ)のようである。
ーー、また廣田神社祭神とかかわる鷲林寺のそ乱荒神は、清山宝荒神と同じだとする説がある。
それはともかく、六甲比命大善神社から夏至の日の出方向に六甲山頂、
石の宝殿、清荒神、そして、京都祇園祭の鈴鹿山(瀬織津姫)が、並ぶのは実に興味深いことである。
以上、六甲比賣講世話人会さま【雲が岩周辺の由来】より抜粋させていただきました。
ここで花山法皇に出会った驚き!
宝珠に導かれ…六甲比命神社
去年の今頃は…白髭神社へ行っていた。
あの時の友人からの声かけで、またタイミング良く11月1日、111の日に向かった場所は…
六甲山。
まだ少し紅葉には早く、
昨夜の雨の後の山は、キリリ✨とした冷気に包まれていた。
六甲カンツリーハウスで道を尋ねる。
Bの道は鎖を登るんちゃう?
修験だからねぇ。
うーん、いやいや、Aの道にしようよ…鎖なんて〜💦落っこちたら困るし〜
😅
とか言いながら、喋る確認事項は盛りだくさんで回り道もウキウキと♪
まったく人の気配のない雨上がりの山の朝は清々しさ満点です。
伏見稲荷、白髭神社、そしてまた今回もかぁって思ったよ…いつも人払いの雨になるね。
道を曲がると光のシャワーがサーッと差した🌤
あ、なんか岩がある…
あの線が入ってるように見えるねぇ…
意味はわからんけど…
こっちだこっちだ…
ここから入るんだよ…
うわー、これ、夏だと蛇出そうよね…
イノシシいるかな、
熊🐻
熊は六甲山にはおらへんで…😅😂
あっ…
えっ…
な、何これ、
坂を登りきった途端目に入ったものに息をのむ…
こ、これすご…足がすくむ
行っても大丈夫?ってくらいの空気感がガラリと変わった。
写真を撮ろうとスマホを出すと…
撮れない、あれ??またや…
撮らんほうがいいって事ちゃう?
六甲比命神社ってこの道の先かな?
あれ、こっちに上に上がる道があるよ。
行く?
うん、道があるなら行かなきゃ。
行こう…
えー‼︎えーっ(@_@)⁉︎
あ、あ、
ちょっと!!あれ!
何これ……
ここや、ここやわ、これやわ。
たしかそう、ここだ。。。
瀬織津姫さまの…
どなたかのブログで見た事あった…
瀬織津姫をここで感得されたという方だったか…
圧倒される岩の壁が突然立ちはだかったように見えた。
全体像を把握するのに、それが磐座だとわかるのに、
数秒を要して…目をみはる。
あー、ここだよ。
こっちの道で正解だったよ。。
この日のためのように手元に来た
チベットの隕石鉄を含むティンシャを鳴らす…
サーッと頭上の木々を強めの風が揺らし、光が磐座にチラチラと踊りながら写ってくる。
なんとも言えない光景が目の前にある。
夢のような、目の前のこの光景が現実とは思えない錯覚を感じる。
それほどまでの圧倒的な存在感のある
磐座。
初めての体験だと…思う。
そして、行くか戻るか…
2人ともどれがどの道かわかってないので、まだここでも進むか戻るか相談しながら行く先を探していたのだ。
あの階段上がる?それともあの岩のある道に戻る?
やはり階段登ってみよう!
そして…
あの宝珠が迎えてくれた。