母の宮 伊豆神社
祭神 瀬織津姫命(セオリツヒメノミコト) 俗名 おない
遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の守護神の母
例祭日 9月17日
坂ノ上田村麻呂が延暦二年(西暦783年)に征夷大将軍に任命され当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。
三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神のおないと三人の姫神たちは、一夜眠っている間に霊華が胸の上に授かった姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。夜になって聖なる花が一番上の姉の姫神にあったのを末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれに別れを告げて発って行った。
此の別れたところに神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。
中略
その中でもこの伊豆神社は遠野の神社の始まりであり、我々は遠野に住む者として更には日本人としての認識を改めるとともに、この貴重な歴史的神道遺産を大切に守り次の世代へと申し送って行かねばならない。
平成十二年十月記
菊池天明氏の「エミシの国の女神」を風琳堂書店さんで取り寄せたところ、
この伊豆神社の由緒書きが添えられていたのです。
だから、必ず行こうと思っていた場所でした。
が、とても空気が重く、上まで行けず、
その時に風が吹いて、カメラの中に光が踊った…
この伊豆神社へ行った後、遠野ダムのある山中を抜けて、その日宿泊予定の遠野駅前の鍋倉山に抜けました。
それがその後の私的な事件に発展するわけですが、、
その意味がやっと今解りかけています。
伊豆は、イツ、斎、厳、 伊月でもあるのかも…
それにも意味があった事が帰ってきてから解りました。
瀬織津姫神は蝦夷の神なのに…
東北、十和田湖と遠野への旅を終え、
自分の見たこと感じたことと照らし合わせながら、
もう一度風琳堂さんのサイトをじっくりと読んでいました。
素直に私の疑問…と妄想妄想(゚∀゚)💦
いったい瀬織津姫は蝦夷側なのか、朝廷側なのか、どっち側なの??
水や滝や山の神であると思えば、
養蚕の神、オシラサマの側面もある。
精霊のようでいて、人間の母と三人の娘の伝承もある…
蝦夷征伐の為に征伐後の蝦夷の魂を鎮める為に船に乗せられてやってきたのか?
じゃぁ、蝦夷の神は北の大地に元々いなかったのか?
熊野から朝廷側が連れてくるとは、蝦夷も熊野と関係あるのか?
蝦夷征伐よりも遥かずっと以前に、蝦夷たちは瀬織津姫と同魂の女神と共に、
開拓団としてやってきていたのではないか…
北の寒い不毛な大地を開拓する為に。
東北の西と東では全く気候が違う。
コメも育たなかった。
飢饉と飢えと寒さに震え上がりながらその大地で生きた人々が信仰していたのは、
雑穀の種を持ち養蚕の技術を持ってこの地にやってきた女神ではなかったのだろうか?
養蚕はその技術の、担い手である女性たちも共に連れてきていたはず。
時が流れ…
しかしあまりにも過酷な土地に閉じ込められた蝦夷達は何度も何度も朝廷に反乱を起こした。
そうだろう、無理やり言いくるめられてやってきたのだから。故郷の温暖な豊かな土地を思うたびに、北の過酷さに不満も募るだろう。
そこへ坂上田村麻呂がやってきた。
阿弖流為と母礼と、心を通じた…
蝦夷達の不遇に心をかけてやってほしいと、
共に嘆願に都へ向かった…
などなど…の、妄想。
あ、なぜここに狐が?
ここで確認のために風琳堂さんのサイトの考察を少し取り上げて
読み直しておきたいと思います。
http://furindo.webcrow.jp/kumanosin.html
大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。
瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。
藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の名を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とよく似た説明をしている。
春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象名に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「大祓神」として降格祭祀をしている。
『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。
熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。(『円空と瀬織津姫』下巻)
室根神社の「記録」は、瀬織津姫は熊野本宮神として、さらにエミシ降伏の祈願神として東北=唐桑半島へやってきたとされる。また、瀬織津姫神のこの長い航海への付き添い人(警護団)は「数百人」とされ、とすると、これは、まるで天皇の行幸なみかそれ以上というべきで、この大規模な随行の様を事実とみると、ここには瀬織津姫の神威に対する朝廷サイドのただならぬ認識がよく表れているというべきだろう。
しかし、このようにエミシの国へやってきた瀬織津姫神だったが、室根山へまつられると、いつのまにか消え、この熊野本宮神はイザナミという神に変更される。ちなみに、イザナミは熊野では熊野夫須美神の異名とされ、現在は那智大社の主神と表示されている。
なお、東北側における、瀬織津姫神勧請の明確な記録としては、この養老二年(七一八)九月九日という因縁の日付をもつ時間は最古のものかとおもう(ここでいう「因縁の日付」とは、かつて伊勢祭祀に最初に手を加えていた天武天皇の命日が九月九日であることと、大津皇子謀殺の持統女帝に利用された川嶋皇子が謎の死を遂げていた日付が、ともに九月九日であることを指す)。
明治二十二年の大洪水で流されるまでは、熊野本宮は、熊野川・音無川の合流部の中州にまつられていた。まさに熊野川の川神・水神としての祭祀がなされていたことは、その鎮座地形が雄弁に物語っていることである。ここに、川神・水神としての瀬織津姫がまつられていたことは、その立地をみてもまったく不思議はなかった。
ところで、この室根神社の伝承にあるように、瀬織津姫=熊野本宮神がエミシ征服の祈願神とみなされていたとするならば、その神の名がイザナミに変更される必要はないようにおもう。朝廷サイドからすれば、エミシ征服の祈願とその成就がかなえば、瀬織津姫神は敬してまつりつづけてしかるべきであろう。しかし、穂積重義たちとともに唐桑半島に上陸し、室根山にまつられると、なぜか、瀬織津姫神の名は消える。
これは、エミシ征服の祈願神としてその神威を利用されたあと、瀬織津姫神は、役割を終えたものとして、その名を消去されたということか。瀬織津姫の名がいつ室根山から消去されたのか、そこのところがはっきりしない。くりかえすが、熊野から長い航海をしてきて唐桑半島へ着いたとき、そこには瀬織津姫神社が現在も存在している。この上陸時点までは、少なくとも瀬織津姫神の祭祀足跡を確認できるとはいえる。
瀬織津姫神を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征服の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。
物部とアラハバキの社へ 丹内山神社
十和田湖を後に一路岩手をめざします。
十和田湖の外輪山を越えて
発荷峠
東北の名峰岩手山が美しい姿を見せていました。
そして、花巻インターから東へ
花巻から遠野に向かう途中にある神社を探しながら…
実はこの旅行の前に携帯が故障し、
新しく変えたばかりでした。
古い携帯のGooglemapにチェックしていた行きたい場所の候補地がWi-Fiがないと検索できなくなっていて…
記憶の元に使い慣れないレンタカーの古いカーナビに頼るしかないという事態…
☆☆☆…
神社の一番奥、アラハバキを祀るという本殿裏の磐座 です。
坂上田村麻呂が東夷征伐にこの地へ入り真っ先にここで戦勝祈願をしたという物部の本拠地
物部の巫女たちが祈りを捧げていた場所でもあるそうで…
この旅の大きなポイントでありました。
では入り口から
丹内山神社と藤原清衡公の由来 の看板より
当神社は地方開拓の祖神として栄え、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷の際に参寵される等、日ごと月ごとに霊験あらたかで、嘉保三年(1096)頃から当時の管領藤原清衡公の信仰が篤に厚く、耕地二十四町歩を神領として寄進され、また山内には御堂百八ヶ所を建立し、百八躰の仏像を安置した社と伝えられています。
藤原清衡は、隣の郡である江刺の餅田の館に居住していたことから、当神社に距離も近く、毎年の例祭には清衡自ら奉幣して、祭りを司っていたといわれています。その後には、安俵城主小原氏、(平清義、時義、義清)更には、南部藩主南部利敬公の崇敬が厚く、藩主の祈願所として栄え、現在に至っています。
東和町観光協会
参拝順序は一番上のアラハバキ巨石から
二つの由緒
一つ目→
『この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神多邇知比古を祭神として祀っており、承和年間(八三四~八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。(丹内山神社境内案内)』
朱の姫神オルゴナイト持参
二つ目の由緒
本殿裏
『アラハバキ大神の巨石(胎内石)
千三百年以前から当神社霊域の御神体として古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、交通安全、商売繁昌等の他、壁面に触れぬようにくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である。』
参拝後の階段を降りている時に目の前にふわりと赤いモノが…
思わず拾って上や周りを見回しましたが、紅葉は見当たらず…🍁
旅の参考資料
風琳堂さんのサイトより
十和田神社 占場 青龍の磐座
横の摂社は熊野神社でした!(◎_◎;)
熊野三山で修行した南僧坊がこの湖の主となったからか?
→胎内潜り八幡宮
青龍神社
神泉苑、御占い場
最深中の湖を眺望
十和田神社参拝所図絵
十和田神社参拝順序
祭神は日本武尊を祭る
神社参拝には大巌石及八十一段の大鉄梯子を上下する故、下駄なれば危険につき草履に履き替えるを宜しとす
手洗い所にて手を洗い本社及びその他の諸神を拝しなば右坂より上がり腹内替り神苑地を経て開山僧南祖像に至る
更に右坂を下り大鉄梯子を下れば御占所に至るべし今所は先年青銅貨三千余百円及古剣古鏡を潜水夫にて引き揚げたる霊場にて、今尚銀銅貨数多水中に見らるべし
占終れば手洗い所まで戻り右方を進むと日の神、天の岩戸、金の神、を祭りし大洞穴あり。
大黒島には大黒及恵比寿の神を祭る、
更にカブト島鎧島を見つつ、西方に進むと数十丈の大岩石の直立せる地高林に至るべし
このところに登るには鉄梯子三ヶ所架設せられ、頂上は昔南祖坊の坐禅せし所にて、今は天ミ中主神を祭る
この所は西の海を一眼にすべく、船舶の往来水鳥に似て眺望の宜しき神社参拝所の第一の名所なり
十和田神社は、北東北地域に広く分布する水神信仰である十和田信仰の象徴である。十和田湖には、熊野三山で修行をしたこの地方出身の南祖坊が、湖の主であった八郎太郎との争いに勝ち、新たな主となったという伝説がある。
ここから山中へ150メートル程入った頂きの平場から、鉄の梯子を伝って降りた所が占い場であり、南祖坊入水の場とも伝えられている。
吉凶を占う場として信仰を集めており、お金やお米を白紙にひねったものや、宮司が神前に供えて祈念をこらした「おより」を湖に投げ入れると、願いが叶う時には水底に引き込まれらように沈み、叶わない時には重いものでも浮いたまま波にさらわれ沖へ流されるといわれている。
十和田湖〜十和田神社
火山の爆発でできた十和田湖
一日目は 奥入瀬渓谷沿いのホテルに宿泊
そこでネイチャーガイドの方から奥入瀬渓谷の成り立ちとその見所についてのお話を聞くことができました。
渓流沿いに眼を見張るような
大きな岩がゴロゴロとあるのはそういうことだったのかと。
=森の学校=
奥入瀬渓流ホテルにて
ネイチャーガイド 川村祐一氏
こうみると おもしろい!「奥入瀬渓流の自然」
今から100万年前に八甲田山の噴火が始まり
最大の噴火は約76万年前
八甲田火山により火砕流大地となりました
その後
十和田火山が噴火を始めます
破局的噴火を繰り返し、十和田湖の原型となるカルデラ地形ができたのです
そこへ雪解け水が溜まり、
約15,000年前外輪山の一部が決壊、
大洪水が深い渓谷を作りました
それから…始まった小さな小さな植物たちの
〝繊細〝な いとなみが
小さな自然が大きな自然を作っていく事に…
何もない岩の上には、木や草花は育ちにくいのです
岩の上に苔が生育する事で
それをマットにして他の植物が育つことができたのでした
コケは胞子で増える植物です
胞子は水の上に落ちて、はじめて子孫を増やしていけるのですが、
奥入瀬渓流には水の豊富な環境が初めからありました
十和田湖の決壊によってできた岩だらけの谷は
その水環境の豊かさで育まれた苔によって
多様な植物が育つ奥入瀬渓流へと変わっていったのです
水が自分に向かってくる光景、渓流の迫力を感じられる
☆コケは水分や養分を吸収するための根を持たない
☆仮根は体を岩などに固定するための機能
☆水分や養分は主に葉や茎から吸収する
→だからコケは養分の少ない岩の上でも生育できる
コケの先祖は水の中にいる藻の仲間だったから根っこから養分を吸わないんですが…
奥入瀬渓流で見ることができる木製シダの子孫→トクサ(研ぐ草)
コケ植物からシダ植物へ、そして樹木、花へ…
奥入瀬渓流の歩き方→②
立ち止まって見るから見えてくる!
立ち止まって、足元の小さな植物達に目を向けてみよう
そこに広がる命の始まりの世界
お話を聞いたラウンジには、岡本太郎作の暖炉があり、その煙突はオブジェになっていました。
人智を超えた自然の威力の前に、人間はなんと小さなものだろう。
水と命、そんなことを感じながら、ふとそこにあった本棚の中に見つけた本がありました。
縄文語の星地名の場所は震災の被害が無かった場所と重なるという
繰り返す災害の中で得た遠い時代からの知恵を
メッセージを私たちは見失ってしまった。
辿れなくなってしまった祖先からのメッセージをもう一度手繰り寄せる事が出来るのだろうか…
足ばやに通り過ぎた旅の日々ではあったけれども
実際に肌で感じた東北の地は、
特に真ん中から東側の地域は、
圧倒的な水と岩でできた命の根源のような自然がむき出しになって、ただ、ただ、あった。
過酷な自然に寄り添って暮らしてきた寡黙な人々の暮らしぶりに
すーっと自分の感情が馴染んで行くのが感じられたのでした。
太古の昔、ここへやってきた星を見る人たちはなんと感じたのだろう…
まるで故郷とは違うこの過酷な大地で何を乗り越えて命を繋いできたのか
そう、星を見る人たちも、蝦夷も、
元ははるかな故郷を後にこの地へやってきた人々だったと思っているのです…