播磨国風土記講座と阿波と鴨
ここ数年、加西市で催されている播磨国風土記講座へ参加しています。
講師は元国際日本文化研究センター准教授、国学者の光田和伸先生。
専門の和歌の研究視点、徹底的なフィールドワークからの播磨国風土記の解明に独自の説を解説、その魅力溢れる講義に聴講生が多すぎて会場変更になったというくらい、毎回聴き逃せない内容の講座です。
その中でも熱心な質問をされる女性が長年の研究を本にされています。
そのご本を頂きました。
ホームページはこちら。
https://harimafudoki.jimdo.com/➏-2-孝橋明子の風土記研究コーナー/
この方は韓国語に堪能でいらっしゃるということで、難解な万葉集の歌を解読されたことが話題になっていました。
ご著書のまえがきの部分から引用させていただきます。
『二〇一三年の初めに、姫路文学館で上田正昭館長と光田和伸先生が「播磨国風土記」のお話をなさいました。光田先生には、「古事記の歌謡」や「芭蕉の俳句」などを姫路文学館で教えていただいていましたが、風土記の話はその時初めて聴きました。その後、韓国語と風土記のことなどを先生とお話する機会があり、先生から、「韓国語のことを書きなさいよ」と勧めていただきました。そこで、書いたものを先生に見ていただいた時、「はりま風土記の里を歩く会」の会員で、加西市の「播磨国風土記」の講座にも出席されていた小幡惠吾氏がご自身のホームページに載せませんか?と勧めてくださいました。そして、小幡氏が管理されている「播磨・風土記の里」のホームページに「孝橋明子の風土記研究」のコーナーができました。…』
ここに書かれているように、この著書の中では、孝橋明子氏の韓国語の見識により播磨国風土記の世界を紐解いておられます。
ニ、望理と鴨波と安相
の項目に
驚く考察が書かれていました。
!!
これは!?
少なくとも私が注目している視点から見ると、
飛び上がるほどの事が書かれています。
『播磨国賀古郡(はりまのくに かこのこほり)
鴨波里(あははのさと)では
たくさんの粟を種いたので、粟粟里という」とあります。
韓国漢字音では、鴨は[ap]、波は[pa]と発音します。』
‼️
。。。
‼️‼️‼️
古代日本では、
鴨はアハと発音する!
えーーー
アハ、アワ、、
阿波から黒潮に乗って東へ行った古人(いにしえびと)の足跡の残る土地や神の名、
阿波波神(あわわ)、阿波女神(あわめ)の名が見えます。
その先には房総半島の安房国。
そのアワを鴨と変換すると、鴨族の移動の地、鴨族の神の名前ということになるのではないのでしょうか。
阿波国は鴨国の意味となる!?
光田先生の持論でも、
鴨の王家は母系であり、鴨族の娘を皇后にする事がこの国の王家の印となると仰っています。
追記
阿波の古代史を追いかけていると、鴨族と阿波の関係はもうすでに明らかな事なのですが、
その阿波、アハの語源が
ひょっとしたら韓国語、百済などの渡来系の人々の言葉から来ていると考えるととても面白いです。
伊豆の神津島には特に明らかな足跡が残っています。すえどんのフォト日記様よりお借りします。
その阿波女神は…
http://sueyasumas.exblog.jp/15738047/
大宜都比売と別雷神を祀る富持神社
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/kamituneyosi.html
上記、斎藤喜一さまサイトより転載。
『大宮町誌』
冨持神社
祭神 天叢雲命・椎根津彦命
ー中略ー
「中郡神社明細帳」には、当社は元加茂神社と称していたが、明治一四年一一月二九日に、冨持神社と改称して許可されたとある。「丹哥府志」にも、加茂大明神として祭日を九月一八日としている。現在の祭は一〇月一〇日である。神楽と太刀振りを奉納する。
加茂神社
祭神 別雷命
由緒不詳、元蛭子神社と称していたが、明治一四年一一月二九日加茂神社と改称する。
咋岡神社
祭神 大宜都姫命
由緒不詳、元杭(ふじ)岡神社と称していたが、明治一四年一一月二四日咋岡神社と改称する。大宜都姫命、豊受大神と同体の神である。この両神社は昭和一五年冨持神社の本殿新築の際、本殿上屋の中に祀る。
✳︎✳︎✳︎
ここは磯砂山(比治山)麓のフジヒジクジ系、クシフル系の神社。
北に藤社神社、南に比遅神社、東に富持神社ということになる。いろいろと習合したようだが、本来の祭神は大宜都姫=豊受大神と思われる。祭日が三月一八日ともあるが、これは藤社の天目一箇神の祭日と同じで、カジヤの祀る神様。
観音寺神名帳の「従五位上 賀茂明神」はこの社かも知れない。
転載終わり
富持神社の正面に見える磯砂山(いさなごやま)です。
見事な苔の絨毯に覆われた参道
背後の山から染み出す水の水路に浮いたような本殿
本殿の中には見事な龍神の彫り物
大宜都比売と別雷神
天叢雲神、椎根津彦
が祀られているそうだが、
龍神が彫られていた
湧き水が、甘くて美味しかった。
清らかな水が溢れる神社でした。
まだまだ…
熊野大神と水の神、
その足跡を追いかける旅は続いているようです。
富持神社のフジは藤を思い浮かべ、
大宜都比売と別雷神(鴨族)を祀っている神社だということが気になり訪れたのでした。
以下の内容を
こちらのサイトさまから転載させていただきました。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/tango.htm#isanago_toyouke
藤と、クナトの神と、竜蛇神について
籠神社の御神幸の神事は、藤の花を冠にかざすことが千古の慣例になっていて、
社伝では欽明天皇の御代に始まったと見えているというが
海部穀定氏によれば、「花開けば、真名井の水を結ぶという。
藤と真名井に関する神秘は、今尚、千古の古儀を伝えて、与佐宮、後の籠神社祭礼の伝統は、この神事を中心に存続されている。」のであり、
御饌の井には、その周辺に藤が植えられていて、藤池とも云っているのであって、藤は即ち比治なのである。」とするが、藤が単に比治の転化だとすれば、これほどに藤へのこだわりが生じるであろうか。
真名井神社の本当の祭神が熊野の大神すなわちクナトノ大神であり、諏訪大社では出雲神族とタテミナカタと藤が結びついているということは、丹波においても最初から竜蛇神をあらわす藤だったのではないだろうか。
筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、古事記で阿治志貴高日子根命を同母妹の高比売命がその御名を顕そうとして歌った「天なるや、弟棚機(おとたなばた)のうながせる、玉のみすまる、みすまるの、あな玉はや、三谷二渡らす、阿治志貴高日子根の神ぞ。」で
折口信夫氏は「三谷二渡らす」とは、蛇の姿となって訪れてくる神のそのかたちが、谷をこえて長大であることを形容したものだと説いているという。
日本書紀の一書では、天稚彦の喪に集まった人が詠んだとも、下照姫が集まった人達に、岡や谷を照り渡るものは、味耜高彦根神であることを知らせようとして詠んだともされている。
弟棚機は棚機つ女と結びつく言葉であろう。吉野裕子『隠された神々』によれば、古代日本人が目にみえるものとしてとらえようとしたのは、常世の神であり、それは祖神としての蛇神であったと思われ、日本の古代信仰における祭りの大きな特色は、神を目に見える形に顕現させ、それを鄭重に迎えて饗応し、援福を願って再び常世に送り出す、とういことにつきると思われるとする。
富持神社の祭神は、天叢雲命・大宜都姫命・椎根津彦命・別雷神であり、籠神社の極秘伝によれば、彦火明命は山城の上鴨の別雷神と異名同神であるという。
丹後において、彦火明命はクナトノ大神と習合するとともに、天照国照という名前は天稚彦・味耜高彦根命とも関係しているから、富持神社の別雷神は味耜高彦根命と異名同神とみなすべきであろう。
富持神社の祭神が味耜高彦根命だとすると、
富持神社と粟鹿神社が東北60度線をつくり、粟鹿神社と兜山(熊野神社)が南北線、兜山(熊野神社)と伊去奈子嶽が西北30度線をつくり、
伊去奈子嶽と富持神社が東西線をつくるとともに伊去奈子嶽は富持神社の神体山ともいえる山であることから、
伊去奈子嶽と出雲神族が深く関係していたことは方位線的にもいえるのではないだろうか。
転載終わり
本殿、拝殿周りのお堀にいた大きなカエル🐸
神社の前の畔のツユクサ
『古くから日本人に親しまれたツユクサ(古名では「つきくさ(月草・鴨頭草)」)は、『万葉集』にも詠われています(9首)朝咲いた花が昼しぼむことから、はかなさの象徴として詠まれたものが多いようです』
朝露に 咲きすさびたる つき草の
日くたつ(或 日たくる)なへに 消(け)ぬべく思ほゆ
朝(あした)咲き 夕(ゆうべ)は消(け)ぬる つき草の
消(け)ぬべき戀(こひ)も 吾(あれ)はするかも
http://hananokotoba.com/tsuyukusa/
オシラサマと狐
遠野市伝承園
国重要文化財 南部曲り家 旧菊池家住宅内
御養蚕堂(おしらどう)
千体のオシラサマが安置される
オシラサマ伝説
昔あったずもな。
ある百姓家にとど(父)とかが(母)と、かわいい娘と若駒が一頭住んでいたど。
年が経つにつれ、娘は輝くばかりに美しくなり、若駒も立派な馬っこになっていたど。
娘は何かするとすぐ馬屋さ行って、馬とばかり楽しそうに話っこしたり笑ったりしているんだど。
そこで、とどがたずねると
「おら、ほだって馬と夫婦になるもの」
と、娘が答えたド。とどは、たんまげで
「そんな馬鹿な。人間と馬が夫婦になるなんて」と、絶句した後
「お前もお前だが、馬も馬だ」と、いうなり馬をひっぱりだすと、桑の木につるして皮をはぎ始めたど。
娘が
「そんなごど、やめてけろ」って叫んでも、とどはきかなかったど。
もう少しではぎあげる時、不思議にも馬の皮がすっぽりと娘を包んで天に昇ってしまったど。
…
ある晩、娘が夢枕に立って教えたど。
「おれの親不孝許してけろ。その代わり○月○日庭の臼の中見てけろ。その虫を桑の葉で養ってまゆっコ作れば高く売れるから」
なるほどその通りで、オシラサマは、養蚕の神様になったんだど。
また、オシラサマは目の神様であり、女の病気の神様、お知らせ、予言の神様でもあるんだどさ。
どんどはれ。
とおの昔話 語り部の会さまによる
昔話の夕べより。
この旧菊池家にあった糸車は、
誰もいないのにクルクルと廻る音がしていたそう(奥州座敷わらしの昔話)
遠野の旧家に伝わるオシラサマ伝承。
元は母から娘へ伝えてきたものが、
巫女たちに託されるようになって
オシラサマ伝承の話の内容も少しずつ各旧家で違っていったそうです。
蚕祭文
「おしら神の祭日に巫女が蚕おしら遊びをさせながら唱える」
口伝で養蚕の歴史を伝えて来た。
六角牛山を守る姉神の神社に伝わるとされる蚕祭文はオシラの祭文、またをシラアの祭文といわれる。
蚕養宮
本尊は保食姫の神で俗にいう稲荷様と云われる同神で農業全般の守り神様で矢張り田村麻呂将軍の頃に祀られたものと云われている。
扁額の養蚕の蚕の字は、天天日虫虫。←蚕の旧字体。
この養蚕の神が遠野ではオシラサマといわれている。
姫と狐…
六神石神社の本殿真後ろに祀られているのが、この養蚕宮でした。
六神石神社は背後の六角牛山を拝する神社であり、
六角牛山には住吉の神も祀られているという。
早池峰山と共に海の民達の信仰が厚い。
本殿後ろに回ってびっくり。
摂社の社が全て赤に塗られていました。
母の宮 伊豆神社
祭神 瀬織津姫命(セオリツヒメノミコト) 俗名 おない
遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の守護神の母
例祭日 9月17日
坂ノ上田村麻呂が延暦二年(西暦783年)に征夷大将軍に任命され当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。
三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神のおないと三人の姫神たちは、一夜眠っている間に霊華が胸の上に授かった姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。夜になって聖なる花が一番上の姉の姫神にあったのを末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれに別れを告げて発って行った。
此の別れたところに神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。
中略
その中でもこの伊豆神社は遠野の神社の始まりであり、我々は遠野に住む者として更には日本人としての認識を改めるとともに、この貴重な歴史的神道遺産を大切に守り次の世代へと申し送って行かねばならない。
平成十二年十月記
菊池天明氏の「エミシの国の女神」を風琳堂書店さんで取り寄せたところ、
この伊豆神社の由緒書きが添えられていたのです。
だから、必ず行こうと思っていた場所でした。
が、とても空気が重く、上まで行けず、
その時に風が吹いて、カメラの中に光が踊った…
この伊豆神社へ行った後、遠野ダムのある山中を抜けて、その日宿泊予定の遠野駅前の鍋倉山に抜けました。
それがその後の私的な事件に発展するわけですが、、
その意味がやっと今解りかけています。
伊豆は、イツ、斎、厳、 伊月でもあるのかも…
それにも意味があった事が帰ってきてから解りました。
瀬織津姫神は蝦夷の神なのに…
東北、十和田湖と遠野への旅を終え、
自分の見たこと感じたことと照らし合わせながら、
もう一度風琳堂さんのサイトをじっくりと読んでいました。
素直に私の疑問…と妄想妄想(゚∀゚)💦
いったい瀬織津姫は蝦夷側なのか、朝廷側なのか、どっち側なの??
水や滝や山の神であると思えば、
養蚕の神、オシラサマの側面もある。
精霊のようでいて、人間の母と三人の娘の伝承もある…
蝦夷征伐の為に征伐後の蝦夷の魂を鎮める為に船に乗せられてやってきたのか?
じゃぁ、蝦夷の神は北の大地に元々いなかったのか?
熊野から朝廷側が連れてくるとは、蝦夷も熊野と関係あるのか?
蝦夷征伐よりも遥かずっと以前に、蝦夷たちは瀬織津姫と同魂の女神と共に、
開拓団としてやってきていたのではないか…
北の寒い不毛な大地を開拓する為に。
東北の西と東では全く気候が違う。
コメも育たなかった。
飢饉と飢えと寒さに震え上がりながらその大地で生きた人々が信仰していたのは、
雑穀の種を持ち養蚕の技術を持ってこの地にやってきた女神ではなかったのだろうか?
養蚕はその技術の、担い手である女性たちも共に連れてきていたはず。
時が流れ…
しかしあまりにも過酷な土地に閉じ込められた蝦夷達は何度も何度も朝廷に反乱を起こした。
そうだろう、無理やり言いくるめられてやってきたのだから。故郷の温暖な豊かな土地を思うたびに、北の過酷さに不満も募るだろう。
そこへ坂上田村麻呂がやってきた。
阿弖流為と母礼と、心を通じた…
蝦夷達の不遇に心をかけてやってほしいと、
共に嘆願に都へ向かった…
などなど…の、妄想。
あ、なぜここに狐が?
ここで確認のために風琳堂さんのサイトの考察を少し取り上げて
読み直しておきたいと思います。
http://furindo.webcrow.jp/kumanosin.html
大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。
瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。
藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の名を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とよく似た説明をしている。
春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象名に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「大祓神」として降格祭祀をしている。
『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。
熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。(『円空と瀬織津姫』下巻)
室根神社の「記録」は、瀬織津姫は熊野本宮神として、さらにエミシ降伏の祈願神として東北=唐桑半島へやってきたとされる。また、瀬織津姫神のこの長い航海への付き添い人(警護団)は「数百人」とされ、とすると、これは、まるで天皇の行幸なみかそれ以上というべきで、この大規模な随行の様を事実とみると、ここには瀬織津姫の神威に対する朝廷サイドのただならぬ認識がよく表れているというべきだろう。
しかし、このようにエミシの国へやってきた瀬織津姫神だったが、室根山へまつられると、いつのまにか消え、この熊野本宮神はイザナミという神に変更される。ちなみに、イザナミは熊野では熊野夫須美神の異名とされ、現在は那智大社の主神と表示されている。
なお、東北側における、瀬織津姫神勧請の明確な記録としては、この養老二年(七一八)九月九日という因縁の日付をもつ時間は最古のものかとおもう(ここでいう「因縁の日付」とは、かつて伊勢祭祀に最初に手を加えていた天武天皇の命日が九月九日であることと、大津皇子謀殺の持統女帝に利用された川嶋皇子が謎の死を遂げていた日付が、ともに九月九日であることを指す)。
明治二十二年の大洪水で流されるまでは、熊野本宮は、熊野川・音無川の合流部の中州にまつられていた。まさに熊野川の川神・水神としての祭祀がなされていたことは、その鎮座地形が雄弁に物語っていることである。ここに、川神・水神としての瀬織津姫がまつられていたことは、その立地をみてもまったく不思議はなかった。
ところで、この室根神社の伝承にあるように、瀬織津姫=熊野本宮神がエミシ征服の祈願神とみなされていたとするならば、その神の名がイザナミに変更される必要はないようにおもう。朝廷サイドからすれば、エミシ征服の祈願とその成就がかなえば、瀬織津姫神は敬してまつりつづけてしかるべきであろう。しかし、穂積重義たちとともに唐桑半島に上陸し、室根山にまつられると、なぜか、瀬織津姫神の名は消える。
これは、エミシ征服の祈願神としてその神威を利用されたあと、瀬織津姫神は、役割を終えたものとして、その名を消去されたということか。瀬織津姫の名がいつ室根山から消去されたのか、そこのところがはっきりしない。くりかえすが、熊野から長い航海をしてきて唐桑半島へ着いたとき、そこには瀬織津姫神社が現在も存在している。この上陸時点までは、少なくとも瀬織津姫神の祭祀足跡を確認できるとはいえる。
瀬織津姫神を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征服の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。
物部とアラハバキの社へ 丹内山神社
十和田湖を後に一路岩手をめざします。
十和田湖の外輪山を越えて
発荷峠
東北の名峰岩手山が美しい姿を見せていました。
そして、花巻インターから東へ
花巻から遠野に向かう途中にある神社を探しながら…
実はこの旅行の前に携帯が故障し、
新しく変えたばかりでした。
古い携帯のGooglemapにチェックしていた行きたい場所の候補地がWi-Fiがないと検索できなくなっていて…
記憶の元に使い慣れないレンタカーの古いカーナビに頼るしかないという事態…
☆☆☆…
神社の一番奥、アラハバキを祀るという本殿裏の磐座 です。
坂上田村麻呂が東夷征伐にこの地へ入り真っ先にここで戦勝祈願をしたという物部の本拠地
物部の巫女たちが祈りを捧げていた場所でもあるそうで…
この旅の大きなポイントでありました。
では入り口から
丹内山神社と藤原清衡公の由来 の看板より
当神社は地方開拓の祖神として栄え、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷の際に参寵される等、日ごと月ごとに霊験あらたかで、嘉保三年(1096)頃から当時の管領藤原清衡公の信仰が篤に厚く、耕地二十四町歩を神領として寄進され、また山内には御堂百八ヶ所を建立し、百八躰の仏像を安置した社と伝えられています。
藤原清衡は、隣の郡である江刺の餅田の館に居住していたことから、当神社に距離も近く、毎年の例祭には清衡自ら奉幣して、祭りを司っていたといわれています。その後には、安俵城主小原氏、(平清義、時義、義清)更には、南部藩主南部利敬公の崇敬が厚く、藩主の祈願所として栄え、現在に至っています。
東和町観光協会
参拝順序は一番上のアラハバキ巨石から
二つの由緒
一つ目→
『この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神多邇知比古を祭神として祀っており、承和年間(八三四~八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。(丹内山神社境内案内)』
朱の姫神オルゴナイト持参
二つ目の由緒
本殿裏
『アラハバキ大神の巨石(胎内石)
千三百年以前から当神社霊域の御神体として古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、交通安全、商売繁昌等の他、壁面に触れぬようにくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である。』
参拝後の階段を降りている時に目の前にふわりと赤いモノが…
思わず拾って上や周りを見回しましたが、紅葉は見当たらず…🍁
旅の参考資料
風琳堂さんのサイトより
十和田神社 占場 青龍の磐座
横の摂社は熊野神社でした!(◎_◎;)
熊野三山で修行した南僧坊がこの湖の主となったからか?
→胎内潜り八幡宮
青龍神社
神泉苑、御占い場
最深中の湖を眺望
十和田神社参拝所図絵
十和田神社参拝順序
祭神は日本武尊を祭る
神社参拝には大巌石及八十一段の大鉄梯子を上下する故、下駄なれば危険につき草履に履き替えるを宜しとす
手洗い所にて手を洗い本社及びその他の諸神を拝しなば右坂より上がり腹内替り神苑地を経て開山僧南祖像に至る
更に右坂を下り大鉄梯子を下れば御占所に至るべし今所は先年青銅貨三千余百円及古剣古鏡を潜水夫にて引き揚げたる霊場にて、今尚銀銅貨数多水中に見らるべし
占終れば手洗い所まで戻り右方を進むと日の神、天の岩戸、金の神、を祭りし大洞穴あり。
大黒島には大黒及恵比寿の神を祭る、
更にカブト島鎧島を見つつ、西方に進むと数十丈の大岩石の直立せる地高林に至るべし
このところに登るには鉄梯子三ヶ所架設せられ、頂上は昔南祖坊の坐禅せし所にて、今は天ミ中主神を祭る
この所は西の海を一眼にすべく、船舶の往来水鳥に似て眺望の宜しき神社参拝所の第一の名所なり
十和田神社は、北東北地域に広く分布する水神信仰である十和田信仰の象徴である。十和田湖には、熊野三山で修行をしたこの地方出身の南祖坊が、湖の主であった八郎太郎との争いに勝ち、新たな主となったという伝説がある。
ここから山中へ150メートル程入った頂きの平場から、鉄の梯子を伝って降りた所が占い場であり、南祖坊入水の場とも伝えられている。
吉凶を占う場として信仰を集めており、お金やお米を白紙にひねったものや、宮司が神前に供えて祈念をこらした「おより」を湖に投げ入れると、願いが叶う時には水底に引き込まれらように沈み、叶わない時には重いものでも浮いたまま波にさらわれ沖へ流されるといわれている。