六神石神社・六角牛山と風と住吉の神
ちょうど一年前…
下書きのままで忘れてた。
風、渡神、後日また…
天翔けるキツネ ☆アマツキツネ ①
天翔けるキツネとは
尾を引いて空を飛ぶ彗星を意味した。
【アメリカ合衆国アリゾナ州のカタリナ天文台で1974年11月1日に撮影されたコホーテク彗星】
ウィキペディア画像
彗星、ほうき星とアマツキツネ
【中国・殷の卜占を記した甲骨文などの古代の資料からは、人間が彗星の出現に数千年の昔から気づいていたことが分かっています。中国では古代から占星術が盛んで、流星に関する記録も多く、色や飛び方によって10種ぐらいに分類していました。
音を立てて 飛ぶ大流星「天狗(てんこう)=天を駆けるキツネの意」はその落ちる 先で大きな戦乱が起きるとされていました。
日本でも「天狗」という名が初めて登場するのは「日本書紀」の舒明天皇9年春で、流星を「天狗」と記しているが、これは「アマツキツネ」と読み、不吉な象徴としての表現としていました。
鼻が高かったり、カラスの姿をしている天狗は流星を修験者や神仏になぞらえたものだったのです。】
『山海経』より「天狗」の姿
天狗
【 元々天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球(-3〜-4等級以上の非常に明るい流星)はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。
この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている。
中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし、『正法念處經』巻19[1]には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下[2]」とあり、
これは古代インドのUlkā(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである。
日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」
飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。
そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる。】
ウィキペディアより
ほうき星、フサフサと長いキツネの尻尾のような彗星が夜空に輝く
大昔の人々はそれを不吉な印として見ていました。
天翔けるキツネは天変地異の象徴だったのです。
天に現れる恐ろしいキツネを崇め、どうか天変地異の無いように、今年の耕作にも豊かな実りを…と願い祈ったのでしょう。
キツネは彗星
天翔ける狗、犬とも、
古代インドのウルカという流星の名前が天狗となったとウィキペディアには書かれていました。
ウルカ…
ウカ
空海は四国の狐を追い出した
鉄の橋が架かかるとき、追い出されたキツネは帰ってくる
大狐、オオキツネ、おおげつね
播磨国風土記講座と阿波と鴨
ここ数年、加西市で催されている播磨国風土記講座へ参加しています。
講師は元国際日本文化研究センター准教授、国学者の光田和伸先生。
専門の和歌の研究視点、徹底的なフィールドワークからの播磨国風土記の解明に独自の説を解説、その魅力溢れる講義に聴講生が多すぎて会場変更になったというくらい、毎回聴き逃せない内容の講座です。
その中でも熱心な質問をされる女性が長年の研究を本にされています。
そのご本を頂きました。
ホームページはこちら。
https://harimafudoki.jimdo.com/➏-2-孝橋明子の風土記研究コーナー/
この方は韓国語に堪能でいらっしゃるということで、難解な万葉集の歌を解読されたことが話題になっていました。
ご著書のまえがきの部分から引用させていただきます。
『二〇一三年の初めに、姫路文学館で上田正昭館長と光田和伸先生が「播磨国風土記」のお話をなさいました。光田先生には、「古事記の歌謡」や「芭蕉の俳句」などを姫路文学館で教えていただいていましたが、風土記の話はその時初めて聴きました。その後、韓国語と風土記のことなどを先生とお話する機会があり、先生から、「韓国語のことを書きなさいよ」と勧めていただきました。そこで、書いたものを先生に見ていただいた時、「はりま風土記の里を歩く会」の会員で、加西市の「播磨国風土記」の講座にも出席されていた小幡惠吾氏がご自身のホームページに載せませんか?と勧めてくださいました。そして、小幡氏が管理されている「播磨・風土記の里」のホームページに「孝橋明子の風土記研究」のコーナーができました。…』
ここに書かれているように、この著書の中では、孝橋明子氏の韓国語の見識により播磨国風土記の世界を紐解いておられます。
ニ、望理と鴨波と安相
の項目に
驚く考察が書かれていました。
!!
これは!?
少なくとも私が注目している視点から見ると、
飛び上がるほどの事が書かれています。
『播磨国賀古郡(はりまのくに かこのこほり)
鴨波里(あははのさと)では
たくさんの粟を種いたので、粟粟里という」とあります。
韓国漢字音では、鴨は[ap]、波は[pa]と発音します。』
‼️
。。。
‼️‼️‼️
古代日本では、
鴨はアハと発音する!
えーーー
アハ、アワ、、
阿波から黒潮に乗って東へ行った古人(いにしえびと)の足跡の残る土地や神の名、
阿波波神(あわわ)、阿波女神(あわめ)の名が見えます。
その先には房総半島の安房国。
そのアワを鴨と変換すると、鴨族の移動の地、鴨族の神の名前ということになるのではないのでしょうか。
阿波国は鴨国の意味となる!?
光田先生の持論でも、
鴨の王家は母系であり、鴨族の娘を皇后にする事がこの国の王家の印となると仰っています。
追記
阿波の古代史を追いかけていると、鴨族と阿波の関係はもうすでに明らかな事なのですが、
その阿波、アハの語源が
ひょっとしたら韓国語、百済などの渡来系の人々の言葉から来ていると考えるととても面白いです。
伊豆の神津島には特に明らかな足跡が残っています。すえどんのフォト日記様よりお借りします。
その阿波女神は…
http://sueyasumas.exblog.jp/15738047/
大宜都比売と別雷神を祀る富持神社
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/kamituneyosi.html
上記、斎藤喜一さまサイトより転載。
『大宮町誌』
冨持神社
祭神 天叢雲命・椎根津彦命
ー中略ー
「中郡神社明細帳」には、当社は元加茂神社と称していたが、明治一四年一一月二九日に、冨持神社と改称して許可されたとある。「丹哥府志」にも、加茂大明神として祭日を九月一八日としている。現在の祭は一〇月一〇日である。神楽と太刀振りを奉納する。
加茂神社
祭神 別雷命
由緒不詳、元蛭子神社と称していたが、明治一四年一一月二九日加茂神社と改称する。
咋岡神社
祭神 大宜都姫命
由緒不詳、元杭(ふじ)岡神社と称していたが、明治一四年一一月二四日咋岡神社と改称する。大宜都姫命、豊受大神と同体の神である。この両神社は昭和一五年冨持神社の本殿新築の際、本殿上屋の中に祀る。
✳︎✳︎✳︎
ここは磯砂山(比治山)麓のフジヒジクジ系、クシフル系の神社。
北に藤社神社、南に比遅神社、東に富持神社ということになる。いろいろと習合したようだが、本来の祭神は大宜都姫=豊受大神と思われる。祭日が三月一八日ともあるが、これは藤社の天目一箇神の祭日と同じで、カジヤの祀る神様。
観音寺神名帳の「従五位上 賀茂明神」はこの社かも知れない。
転載終わり
富持神社の正面に見える磯砂山(いさなごやま)です。
見事な苔の絨毯に覆われた参道
背後の山から染み出す水の水路に浮いたような本殿
本殿の中には見事な龍神の彫り物
大宜都比売と別雷神
天叢雲神、椎根津彦
が祀られているそうだが、
龍神が彫られていた
湧き水が、甘くて美味しかった。
清らかな水が溢れる神社でした。
まだまだ…
熊野大神と水の神、
その足跡を追いかける旅は続いているようです。
富持神社のフジは藤を思い浮かべ、
大宜都比売と別雷神(鴨族)を祀っている神社だということが気になり訪れたのでした。
以下の内容を
こちらのサイトさまから転載させていただきました。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/tango.htm#isanago_toyouke
藤と、クナトの神と、竜蛇神について
籠神社の御神幸の神事は、藤の花を冠にかざすことが千古の慣例になっていて、
社伝では欽明天皇の御代に始まったと見えているというが
海部穀定氏によれば、「花開けば、真名井の水を結ぶという。
藤と真名井に関する神秘は、今尚、千古の古儀を伝えて、与佐宮、後の籠神社祭礼の伝統は、この神事を中心に存続されている。」のであり、
御饌の井には、その周辺に藤が植えられていて、藤池とも云っているのであって、藤は即ち比治なのである。」とするが、藤が単に比治の転化だとすれば、これほどに藤へのこだわりが生じるであろうか。
真名井神社の本当の祭神が熊野の大神すなわちクナトノ大神であり、諏訪大社では出雲神族とタテミナカタと藤が結びついているということは、丹波においても最初から竜蛇神をあらわす藤だったのではないだろうか。
筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、古事記で阿治志貴高日子根命を同母妹の高比売命がその御名を顕そうとして歌った「天なるや、弟棚機(おとたなばた)のうながせる、玉のみすまる、みすまるの、あな玉はや、三谷二渡らす、阿治志貴高日子根の神ぞ。」で
折口信夫氏は「三谷二渡らす」とは、蛇の姿となって訪れてくる神のそのかたちが、谷をこえて長大であることを形容したものだと説いているという。
日本書紀の一書では、天稚彦の喪に集まった人が詠んだとも、下照姫が集まった人達に、岡や谷を照り渡るものは、味耜高彦根神であることを知らせようとして詠んだともされている。
弟棚機は棚機つ女と結びつく言葉であろう。吉野裕子『隠された神々』によれば、古代日本人が目にみえるものとしてとらえようとしたのは、常世の神であり、それは祖神としての蛇神であったと思われ、日本の古代信仰における祭りの大きな特色は、神を目に見える形に顕現させ、それを鄭重に迎えて饗応し、援福を願って再び常世に送り出す、とういことにつきると思われるとする。
富持神社の祭神は、天叢雲命・大宜都姫命・椎根津彦命・別雷神であり、籠神社の極秘伝によれば、彦火明命は山城の上鴨の別雷神と異名同神であるという。
丹後において、彦火明命はクナトノ大神と習合するとともに、天照国照という名前は天稚彦・味耜高彦根命とも関係しているから、富持神社の別雷神は味耜高彦根命と異名同神とみなすべきであろう。
富持神社の祭神が味耜高彦根命だとすると、
富持神社と粟鹿神社が東北60度線をつくり、粟鹿神社と兜山(熊野神社)が南北線、兜山(熊野神社)と伊去奈子嶽が西北30度線をつくり、
伊去奈子嶽と富持神社が東西線をつくるとともに伊去奈子嶽は富持神社の神体山ともいえる山であることから、
伊去奈子嶽と出雲神族が深く関係していたことは方位線的にもいえるのではないだろうか。
転載終わり
本殿、拝殿周りのお堀にいた大きなカエル🐸
神社の前の畔のツユクサ
『古くから日本人に親しまれたツユクサ(古名では「つきくさ(月草・鴨頭草)」)は、『万葉集』にも詠われています(9首)朝咲いた花が昼しぼむことから、はかなさの象徴として詠まれたものが多いようです』
朝露に 咲きすさびたる つき草の
日くたつ(或 日たくる)なへに 消(け)ぬべく思ほゆ
朝(あした)咲き 夕(ゆうべ)は消(け)ぬる つき草の
消(け)ぬべき戀(こひ)も 吾(あれ)はするかも
http://hananokotoba.com/tsuyukusa/
オシラサマと狐
遠野市伝承園
国重要文化財 南部曲り家 旧菊池家住宅内
御養蚕堂(おしらどう)
千体のオシラサマが安置される
オシラサマ伝説
昔あったずもな。
ある百姓家にとど(父)とかが(母)と、かわいい娘と若駒が一頭住んでいたど。
年が経つにつれ、娘は輝くばかりに美しくなり、若駒も立派な馬っこになっていたど。
娘は何かするとすぐ馬屋さ行って、馬とばかり楽しそうに話っこしたり笑ったりしているんだど。
そこで、とどがたずねると
「おら、ほだって馬と夫婦になるもの」
と、娘が答えたド。とどは、たんまげで
「そんな馬鹿な。人間と馬が夫婦になるなんて」と、絶句した後
「お前もお前だが、馬も馬だ」と、いうなり馬をひっぱりだすと、桑の木につるして皮をはぎ始めたど。
娘が
「そんなごど、やめてけろ」って叫んでも、とどはきかなかったど。
もう少しではぎあげる時、不思議にも馬の皮がすっぽりと娘を包んで天に昇ってしまったど。
…
ある晩、娘が夢枕に立って教えたど。
「おれの親不孝許してけろ。その代わり○月○日庭の臼の中見てけろ。その虫を桑の葉で養ってまゆっコ作れば高く売れるから」
なるほどその通りで、オシラサマは、養蚕の神様になったんだど。
また、オシラサマは目の神様であり、女の病気の神様、お知らせ、予言の神様でもあるんだどさ。
どんどはれ。
とおの昔話 語り部の会さまによる
昔話の夕べより。
この旧菊池家にあった糸車は、
誰もいないのにクルクルと廻る音がしていたそう(奥州座敷わらしの昔話)
遠野の旧家に伝わるオシラサマ伝承。
元は母から娘へ伝えてきたものが、
巫女たちに託されるようになって
オシラサマ伝承の話の内容も少しずつ各旧家で違っていったそうです。
蚕祭文
「おしら神の祭日に巫女が蚕おしら遊びをさせながら唱える」
口伝で養蚕の歴史を伝えて来た。
六角牛山を守る姉神の神社に伝わるとされる蚕祭文はオシラの祭文、またをシラアの祭文といわれる。
蚕養宮
本尊は保食姫の神で俗にいう稲荷様と云われる同神で農業全般の守り神様で矢張り田村麻呂将軍の頃に祀られたものと云われている。
扁額の養蚕の蚕の字は、天天日虫虫。←蚕の旧字体。
この養蚕の神が遠野ではオシラサマといわれている。
姫と狐…
六神石神社の本殿真後ろに祀られているのが、この養蚕宮でした。
六神石神社は背後の六角牛山を拝する神社であり、
六角牛山には住吉の神も祀られているという。
早池峰山と共に海の民達の信仰が厚い。
本殿後ろに回ってびっくり。
摂社の社が全て赤に塗られていました。
母の宮 伊豆神社
祭神 瀬織津姫命(セオリツヒメノミコト) 俗名 おない
遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の守護神の母
例祭日 9月17日
坂ノ上田村麻呂が延暦二年(西暦783年)に征夷大将軍に任命され当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。
三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神のおないと三人の姫神たちは、一夜眠っている間に霊華が胸の上に授かった姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。夜になって聖なる花が一番上の姉の姫神にあったのを末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれに別れを告げて発って行った。
此の別れたところに神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。
中略
その中でもこの伊豆神社は遠野の神社の始まりであり、我々は遠野に住む者として更には日本人としての認識を改めるとともに、この貴重な歴史的神道遺産を大切に守り次の世代へと申し送って行かねばならない。
平成十二年十月記
菊池天明氏の「エミシの国の女神」を風琳堂書店さんで取り寄せたところ、
この伊豆神社の由緒書きが添えられていたのです。
だから、必ず行こうと思っていた場所でした。
が、とても空気が重く、上まで行けず、
その時に風が吹いて、カメラの中に光が踊った…
この伊豆神社へ行った後、遠野ダムのある山中を抜けて、その日宿泊予定の遠野駅前の鍋倉山に抜けました。
それがその後の私的な事件に発展するわけですが、、
その意味がやっと今解りかけています。
伊豆は、イツ、斎、厳、 伊月でもあるのかも…
それにも意味があった事が帰ってきてから解りました。