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城南宮 真幡寸神社と伏見稲荷大社

記録としてのブログであったことを思い出し、(^_^;)

時系列がバラバラではありますが

足を運んだ場所の記録としてアップしていこうと思います。

今になって点と点を結ぶような事が起きてきています。

 

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3月初め、京都伏見 城南宮のしだれ梅を観に行った時に気になった

真幡寸神社。

幡は秦氏であろう、どういう由来の神社であるのか後で調べようと写真を撮りました。

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城南宮は元は真幡寸神社であったということです。

城南宮

『創立年代は不詳である。この地にあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝える。平安遷都の際に国常立尊が併祀され、城(平安京)の南にあることから「城南神」と呼ばれた。白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部となり、代々の天皇上皇行幸がしばしばあった。また後代になると京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。

応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興された。幕末の文久3年(1863年)には孝明天皇の攘夷祈願の行幸があった。新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの主戦場となったものこの地である。

明治10年(1876年)には式内社「真幡寸神社」に比定され、社名を「真幡寸神社」に改称した。しかし昭和43年(1968年)に「城南宮」に復し、「真幡寸神社」はその境内摂社として境内に新たに社殿を設けて奉祀されることになった。

wikipediaより』

 

船に旗を立てて、神功皇后、八千戈神の神霊を添える…(◎_◎;)

 

まさに船靈を祀ったのが始まりだということになる。

 

そしてもう一つ、とても重要な事実がわかったのです。

 

真幡寸神社は元は城南宮から東の藤森にある藤森神社の場所にあった。

そして藤森神社は、今の伏見稲荷大社の地にあったという。

 

藤森神社由来

『社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。

藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地である。その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。

そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。

なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。

wikipediaより。』

 

今でも藤森神社の祭りの際にはこんなことがあるそうです💦

 『1300年前の事、稲荷神社を建てるにあたり稲荷の関係者が藤森神社に出かけ「小さな祠を造りたいので数束の稲を置く場所をお借りできないものか?」と頼んだという。藤森神社は、いくら大きな稲束でも数束なら10坪もあればよいだろうと了解したらしい。
 
 稲荷派の者は直ちに大きな稲束を持ち込むと、その束を開き稲わらを1本ずつ取り出し縦に線を描くように並べて稲荷の山を囲み「藤森さんから了解されたのだから」と、その中腹に社を建てたという。
 1本ずつ縦に並べて山を囲むなんてインチキや! と藤森神社が憤慨しても後の祭り。

 このため、藤森祭のとき、藤森神社の者が馬の上から「土地返しや!」と叫ぶと、稲荷からは「お留守!」と返したという。
 今でも伏見稲荷の周辺に住む人は藤森神社の氏子になる由。

http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5474

 

という事は、真幡寸神社に船靈を祀ったその起こりの地は現在の藤森神社ということになるのでしょう。

 

そして、藤森神社の元は藤尾大名神といい、今の伏見稲荷大社の場所に祀られていたのです。

 

伏見稲荷の神様たちはどこから何のために京都伏見のお山にやって来たのか、

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もうこのブログを最初から読んでもらっている方々はご存知の事と思います。(*^^*)