京都御所 宗像神社

 京都御所内  宗像神社、花山院

 

ご由緒  (ウィキペディアより)

 

社伝によれば、延暦14年(795年)、藤原冬嗣桓武天皇の勅命を蒙り、

皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、

自邸である東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝えるが、

当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられる。

 

東京第は冬嗣の没後、東の花山院と西の小一条第に分けられたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せている。

 

小一条第は藤原内麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅であるが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで小一条第を買ってもらい、

 

そこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためである。


また、邸内の東北隅には天石戸開神も祀られていたようであるが、その由緒は不明である。

 

東京第は嘉祥3年(850年)に清和天皇(生母は冬嗣の孫の明子)が誕生した場所で、

その縁から同天皇の産神・産土神と崇められたようで、

宗像3神には即位の翌年である貞観元年(859年)に正二位が授けられており(その後従一位に昇進)、

同7年(865年)には同じく邸内社であった天石戸開神にも従三位が授けられ、

同年4月17日には特に楯・桙・鞍を奉納するほどであったが、

延喜式神名帳』には登載されずに終わった。

 

その後、藤原時平の代に倉稲魂神を合祀し、

更に天承元年(1131年)に藤原師実から子家忠が花山院(小一条第も花山天皇の皇居とされて以来「花山院」と呼ばれるようになっていた)を伝領して花山院家を開くと、

 

天石戸開神をも合祀して同家の守護神とするようになり、

建治元年(1275年)になって初めて官社に列したという。

 

 

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