瀬織津姫神は蝦夷の神なのに…
東北、十和田湖と遠野への旅を終え、
自分の見たこと感じたことと照らし合わせながら、
もう一度風琳堂さんのサイトをじっくりと読んでいました。
素直に私の疑問…と妄想妄想(゚∀゚)💦
いったい瀬織津姫は蝦夷側なのか、朝廷側なのか、どっち側なの??
水や滝や山の神であると思えば、
養蚕の神、オシラサマの側面もある。
精霊のようでいて、人間の母と三人の娘の伝承もある…
蝦夷征伐の為に征伐後の蝦夷の魂を鎮める為に船に乗せられてやってきたのか?
じゃぁ、蝦夷の神は北の大地に元々いなかったのか?
熊野から朝廷側が連れてくるとは、蝦夷も熊野と関係あるのか?
蝦夷征伐よりも遥かずっと以前に、蝦夷たちは瀬織津姫と同魂の女神と共に、
開拓団としてやってきていたのではないか…
北の寒い不毛な大地を開拓する為に。
東北の西と東では全く気候が違う。
コメも育たなかった。
飢饉と飢えと寒さに震え上がりながらその大地で生きた人々が信仰していたのは、
雑穀の種を持ち養蚕の技術を持ってこの地にやってきた女神ではなかったのだろうか?
養蚕はその技術の、担い手である女性たちも共に連れてきていたはず。
時が流れ…
しかしあまりにも過酷な土地に閉じ込められた蝦夷達は何度も何度も朝廷に反乱を起こした。
そうだろう、無理やり言いくるめられてやってきたのだから。故郷の温暖な豊かな土地を思うたびに、北の過酷さに不満も募るだろう。
そこへ坂上田村麻呂がやってきた。
阿弖流為と母礼と、心を通じた…
蝦夷達の不遇に心をかけてやってほしいと、
共に嘆願に都へ向かった…
などなど…の、妄想。
あ、なぜここに狐が?
ここで確認のために風琳堂さんのサイトの考察を少し取り上げて
読み直しておきたいと思います。
http://furindo.webcrow.jp/kumanosin.html
大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。
瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。
藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の名を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とよく似た説明をしている。
春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象名に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「大祓神」として降格祭祀をしている。
『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。
熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。(『円空と瀬織津姫』下巻)
室根神社の「記録」は、瀬織津姫は熊野本宮神として、さらにエミシ降伏の祈願神として東北=唐桑半島へやってきたとされる。また、瀬織津姫神のこの長い航海への付き添い人(警護団)は「数百人」とされ、とすると、これは、まるで天皇の行幸なみかそれ以上というべきで、この大規模な随行の様を事実とみると、ここには瀬織津姫の神威に対する朝廷サイドのただならぬ認識がよく表れているというべきだろう。
しかし、このようにエミシの国へやってきた瀬織津姫神だったが、室根山へまつられると、いつのまにか消え、この熊野本宮神はイザナミという神に変更される。ちなみに、イザナミは熊野では熊野夫須美神の異名とされ、現在は那智大社の主神と表示されている。
なお、東北側における、瀬織津姫神勧請の明確な記録としては、この養老二年(七一八)九月九日という因縁の日付をもつ時間は最古のものかとおもう(ここでいう「因縁の日付」とは、かつて伊勢祭祀に最初に手を加えていた天武天皇の命日が九月九日であることと、大津皇子謀殺の持統女帝に利用された川嶋皇子が謎の死を遂げていた日付が、ともに九月九日であることを指す)。
明治二十二年の大洪水で流されるまでは、熊野本宮は、熊野川・音無川の合流部の中州にまつられていた。まさに熊野川の川神・水神としての祭祀がなされていたことは、その鎮座地形が雄弁に物語っていることである。ここに、川神・水神としての瀬織津姫がまつられていたことは、その立地をみてもまったく不思議はなかった。
ところで、この室根神社の伝承にあるように、瀬織津姫=熊野本宮神がエミシ征服の祈願神とみなされていたとするならば、その神の名がイザナミに変更される必要はないようにおもう。朝廷サイドからすれば、エミシ征服の祈願とその成就がかなえば、瀬織津姫神は敬してまつりつづけてしかるべきであろう。しかし、穂積重義たちとともに唐桑半島に上陸し、室根山にまつられると、なぜか、瀬織津姫神の名は消える。
これは、エミシ征服の祈願神としてその神威を利用されたあと、瀬織津姫神は、役割を終えたものとして、その名を消去されたということか。瀬織津姫の名がいつ室根山から消去されたのか、そこのところがはっきりしない。くりかえすが、熊野から長い航海をしてきて唐桑半島へ着いたとき、そこには瀬織津姫神社が現在も存在している。この上陸時点までは、少なくとも瀬織津姫神の祭祀足跡を確認できるとはいえる。
瀬織津姫神を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征服の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。