京都☆秦氏の足跡をたどるように…蚕ノ社
つい最近(平成28年6月2日)、
偶然が重なり、この日ここへと導かれたのです。
昨年末の京都への旅行で松尾大社、月読神社を訪ねた時、
行きたかったけれど行けなかった神社
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
蚕養神社があるため、蚕ノ社と呼ばれています。
阿波一ノ宮、上一宮大粟神社のご祭神
(月の姫、オオゲツヒメ)との関連があると私が思っている、
養蚕の神を祀る蚕養神社が
この神社本殿の横に祀られているのです。
(ここは、月の民が移動したシルクロードの最終地点なのかも…期待でドキドキ)😊
JR山陰線花園駅から歩いたため、結構な距離でした。💦
この日は梅雨前の晴れた爽やかな日でしたが、
歩き疲れ汗しながらこの神社の鳥居の前に立って驚きました。
奥にある社へと吸い込まれるかのようなシンとした温度の変わる静寂。
オレンジ色の光が本殿のあたりに見えます。
灯りが灯っていると思いながら近づいて見ると
木漏れ日だったのでした。
住宅街の中なのに、なんと気持ちの良い神域なのだろう。
私一人の境内、静けさの中で手を合わせ…
グルグル、ふわ〜〜、
眩暈のような、クラッとして足元が地面を踏んでいないように浮き上がりそうになり…
驚いていったん目を開けて、なぜか背後を確認し…f^_^;)
嵯峨野から嵐山あたりを歩き、花園駅からも歩いたせいで、立ち止まった途端足のしびれが来たのか⁉︎
と足元を見て、
氣を落ち着けてもう一度手を合わせました
ら…また、グルグルふわ〜〜、
目を閉じているとどこかに連れて行かれそうな体感、
こんなのは数ある神社参拝でも全く初めての感覚で、、、
やはり歩き疲れていたのかもしれません…(≧∇≦)
秦氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされる。古代の天然繊維の内で、いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹である。秦氏一族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請し、太秦の地に奉祭した。それが、俗に「蚕の社」と呼ばれる蚕養(こかい)神社である。
養蚕の起源は中国の殷代(紀元前1700~1200年)にあり、黄河、揚子江の中・下流域で始まった。絹の生産技術と製品は長い間、中国の門外不出の扱いを受けていた。絹織物は中国の特産品であり、ヨーロッパとの交易ルートだったシルクロードとは、まさに絹の道そのものだった。古代の中国では、蚕の餌となる桑の木は神木とされていた。日本の別称を扶桑というが、これも桑の神聖化から派生した名称であろう。日本には、弥生時代の中頃に中国から直接養蚕技術が伝えられたとされている。しかし、錦などの文様をあらわした織り技術の伝来は、5世紀後半の技術者の渡来を待たねばならなかった。
下記サイトさまより
http://www.bell.jp/pancho/travel/hata/konosima-jinja.htm
秦氏とは、京都を作った陰の功労者ともいわれ、あまり表には出てきません。
しかし、京都の蚕ノ社のある太秦には秦氏の住んだ足跡が色濃く残っています。
松尾大社、月読神社、蚕ノ社、広隆寺、蛇塚古墳(秦氏の有力者、首長を葬ったとも言われ、住宅街の中にある大きな横穴式石室を持つ前方後円墳)などの秦氏に関係する史跡です。
正面が木島神社、右横に蚕養神社(蚕ノ社)
☆正しくは木嶋坐天照御魂神社といい、一般的には『蚕の社』として知られています。これは境内摂社に蚕の社(蚕養神社)があって、木嶋神社よりこの方が一般に信仰されているからです。
木嶋神社の創建は古く「続日本紀」によれば、文武天皇の大宝元年四月に
「山背国月読神、樺井神、木島神等の稲を今より以後は中臣氏に給え」
という勅が出ているので、それ以前の鎮座であることが推定されます。
当社はこの地に上古から住んでいた民が五穀豊穣を祈って、高皇産霊神を祀ったものと思われますが、
一説には社名に因んで天照御魂命すなわち天照国照彦天火明命ともいわれ、他にも説があるようで定かではありません。
かつては葛野郡では有数の大社として、延喜式では名神大社となり、数度に及び相嘗祭、祈雨祭を行いましたが、特に祈雨の神として崇敬を集めました。
社前にある池は、祈雨の祈りを捧げるときに用いられたと推測されます。
http://www.kyototownmap.com/page/kaiko.html
双葉葵
『下鴨神社の瀬見の小川西側にある摂社、河合神社の祭神は、賀茂別雷命の母である玉依姫命で、元は秦氏の祭神で、賀茂氏が秦氏の婿となり祭祀権を譲られた関係からと見られています。 』
☆この鳥居での方がここは有名かもしれません。
石でできた三柱鳥居
鳥居のある場所はかつて水が湧き出ていたといい、枯れた池の中。
柵で囲まれ禁足地となっています。
有名な御手洗祭りの際には地下水を汲み上げ池を満たすそうです。
秦氏と鴨族は、いつの時代からの縁なのか?
どこで出会い、どこからこの地へ?
この地を都にするための土木建築や産業技術を持ち、都建設事業を成した秦氏と陰陽道を使い都に結界を張った祭祀族である賀茂一族…
この国を作り上げた
氏族名ではわからない見えないつながりが、両氏族の底流に流れていた…
点と点が、
時代を超えて、場所と場所を結んでゆく
☆おまけ
境内左手奥にあるお稲荷さんは古墳の中。
椿丘大明神と案内が出ていました。
何とも言えない雰囲気のある場所で、お賽銭を入れるのに中に入らなければならず、暫く躊躇しました。
中で狐さんに囲まれながら手を合わせて目を閉じる…慌てて出てきましたf^_^;)
さすがにこの辺りの写真は撮れなかったのですが、やはりここも意味があったようで。
後から来た地元の方らしき女性が熱心にお参りしておられました。