京都☆秦氏の足跡をたどるように…月読神社

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月読神社
創建.wikipediaより

日本書紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。

朝廷はこの月神に対して山背国(山城国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。

その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。

このほか『山城国風土記逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。

 

 

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月読神社
創建.wikipediaより

日本書紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。

朝廷はこの月神に対して山背国(山城国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。

その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。

このほか『山城国風土記逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の弟神として知られるが、
月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている。
日本書紀顕宗天皇3年2月条における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある。

また『先代旧事本紀』では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える。
これらから、当社祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)と推定される。

また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もある。

関連して、『日本書紀顕宗天皇3年4月条では対馬下県直が奉斎した「日神」の記載があるが、
こちらもまたアマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる。

同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている。