霊鎮めと不思議な歌

古代東山道

今から1300年前、朝廷は近江の国 勢多から 陸奥の国 多賀城まで通じる長さ1000kmの「東山道」を作りました。

この道は地方を支配する「支配、軍事の道」、九州北辺の防備に徴用された「防人の道」、都へ税を運んだ「納税の道」、信濃国で生産された馬を運ぶ「貢馬の道」として利用されていました。

この東山道最大の難所「神坂峠」標高1576mは、

山高く谷深いことから気候の変化が激しく、濃霧や落雷とどろく場所であったため通る旅人を大変苦しめました。

しかし、難所ではあったものの、東と西を分けるこの峠を越えればあと何日と、旅の予定も立てられる道であったことから、東海道よりも賑わったと言われています。そんな難所は、通った人々の印象に強く残り、多くの旅人たちが都にそれを伝えました。そうして神坂峠やその麓である園原は広く知られ、古事記日本書紀をはじめとして多くの古文学に地名や歌枕として登場します。

 

東山道と古文学 園原の里 園原ビジターセンターははき木館 案内書きより)

 

 

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壹宮神社

伯耆国 壹宮神社  大山町妻木

 

社伝に曰く「高木神天照大神の勅命により正哉吾勝命降り坐さんとする時、皇孫瓊瓊杵逸速く御誕生遊ばされし故を以て、古く一ノ宮と称し奉るなり」

と。

古事記に曰く「爾天照大御神、高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、今平訖葦原中国之曰、故随言依賜、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答曰、僕者将降装束之間、子生出、名天邇岐志国邇志天津日高日子番能邇々芸命、此子応降也」とあるを以て証すべし。

 

又旧記に拠なしと雖も、古老の口碑に伝ふることあり、「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」と。

 

 古老の口碑に伝ふる「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」は「神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、・・・・・因て人民迎尊して」であり、

 

 

「・・・・・」は明治維新の申請時に削除されている。

 
 昭和9年刊鳥取県神社誌

 

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天忍穂耳尊 wikiより

古事記』では、アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、勾玉の持ち主であるアマテラスの子としている[2『日本書紀』の一書では次男とされている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう[1]。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。
「オシホミミ(忍穂耳)」は威力(生命力)に満ちた稲穂の神の意である。

 

 

 


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下照姫=
古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子と結婚した。天若日子高天原からの返し矢に当たって死んだとき、下照比売の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯を行った。それに阿遅鋤高日子根神が訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、喪屋を大量で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの妹であるとしている。


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椿の花と


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すくね塚には丸い石が祀られていた。
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大山と孝霊山🏔
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