秦氏と空海と、…物部の影。
元は藤森神社の社地であり、
今でも藤森神社の祭りでは
藤森神社の氏子が伏見稲荷に向かって、土地を返せと言うという。
私は学生時代は伏見に住んでいたというのに参拝した事がなく、
初めて伏見稲荷を訪れた2年ほど前に、稲荷のお山から降りてきて足が止まったのがこの大八嶋社でした。
大八嶋大神、元の地主神をお祀りした社のない禁足地。
観光客は足を延ばさない、地元の方が自転車でここだけにお参りに来られ、サッと帰って行かれるような様子です。
何か重要な場所であるように思いながら、
しかしその意味がやっと2年越しに分かったのが今朝のことでした…f^_^;)
友人が東寺に行き、FBでこの写真をアップしていました。
写真をお借りしました🙏
東寺の八嶋社殿
そう、八嶋!
東寺境内にあるのだそうです。
稲荷のような朱いお社です。
なんと、ここも地主神であり、大己貴神です。
空海のお母さんは阿刀氏の出自であり、母方の叔父、阿刀大足の影響もあったのか、空海は京に来ます。そこで学問を学び、大足の支援を受け唐へ留学する事になるのです。
阿刀氏とは?
東寺の北側に石上神社があります。
以下のサイトさまより
http://www.kyotofukoh.jp/report1100.html
『東寺の境内北の住宅地に、小社の石上神社(いそのかみ じんじゃ)がある。正式には石上布留社(いそのかみふるしゃ)という。東寺執行職(しぎょうしょく)を世襲した、空海母方実家・阿刀氏が奉祀した。その屋敷跡になっている。
祭神は本社に石上布留御魂(いそのかみふるのみたま)、相殿に阿刀大神(あとおおかみ)を祀る。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
平安時代、823年より、真言宗の政所となる。宰主は、阿刀家が務め、歴代の世襲職となる。空海父の実弟、阿刀家の女婿の阿刀大足以来の慣例によるものという。
近代、明治維新(1868-)以来、大和国一宮三輪社、三輪山の山伏宗が継受相続され、寺号の三輪山大御輪寺と三輪山平等寺を継承しているという。
1871年、真言宗の政所を廃される。
◆阿刀家 神社は、東寺執行職(しぎょうしょく)を世襲した、空海の母方の実家・阿刀氏が奉祀した。
境内の石上布留社は、阿刀家の祭壇であるという。相殿には阿刀大神が祀られている。
◆阿刀大足 奈良時代から平安時代の学者・阿刀大足(あとのおおたり、生没年不詳)。詳細は不明。真言宗開祖・弘法大師空海(774-835)の母方の叔父にあたる。空海は大足を頼り上京し、大足より論語、孝経、史伝、中国語、漢学などを学んだという。空海の入唐の際にも、大足の援助があったという。』
石…阿刀氏は物部…?
阿刀神社のある場所が太秦。
阿刀神社
『式内阿刀神社は阿刀家の祖霊社である。 阿刀家は、かつてここで鎮魂伝を相承していた。また、阿刀家はここで嵯峨天皇の御作と言う天照大神のお木像をおまつりしていた。 昔は、この社から東の方を嵯峨野と言った。後水尾天皇はここにあった燈象菴におこしのとき、阿刀栄元に 虫の音も長き夜飽かぬ故郷に 楢思ひ添う松風ぞ吹く との御色紙を下さった。 阿刀家は弘法大師の生母の里方である。 弘法大師は、三教指帰の初稿をここで書いたと言われている。 阿刀家は弘仁14年正月真言宗の執行職として東寺に移ったが、嵯峨との交渉には変わりはなかった。角倉了以の家も清原国賢の家も阿刀家と親族であった。この両家の関係は、近世嵯峨文化の基源を成したと言われている。右京区嵯峨広沢南野町』
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=342
ここで一旦、
前回からの、京都☆秦氏の足跡を辿るシリーズの復習🖋
京の地の出雲系統は賀茂氏でした。
賀茂氏はかなり古い時代にすでに京都の地へ入っていました。
葵祭の天御影神は、丹後との関わりが深い。丹後の天御影祭りは葵祭に先立って執り行われています。
そのずっと後、平安京直前に、
京の地で賀茂氏と重なってくる秦氏。京の都造りに尽力した技術集団、渡来の民。
そして、神話では…
八千戈神である大己貴神、大国主神は出雲国譲りした神。天孫に追い出された民たちの神。
その八千戈神を船霊として旗に祀り新羅遠征した神功皇后を祀ったのが、秦氏の藤森神社であり、真幡寸神社でした。
かなり古い時代を見ると賀茂氏と重なる物部の面があります…
これは、鴨氏発祥の地だと感じている阿波の丹田古墳と繋がると思っていますが、、
物部の旅にて
http://aihanum.hatenablog.com/entry/2016/02/26/210020
ここで始めに戻り、伏見稲荷の大八嶋社と、東寺の八嶋社殿の共通点とは何なのか?
について…
ですが頭の中がくるくるしてきたので、
次回へ続きます(≧∇≦)