元伊勢外宮☆船岡山に眠る豊受姫
元伊勢外宮☆豊受大神社
(とゆけだいじんじゃ)
名 称 元伊勢外宮豊受大神社
所 在 地 京都府福知山市大江町字天田内船岡山
主 祭 神 豊受大神
相 殿 日子番能邇々杵命(ひこほのににぎのみこと)
天児屋根命・天太玉命
奥 宮 -
摂 社 多賀神社・土之神社・月読宮・風之神社(四社を以て四所別宮と称す)
末 社 三十七社
祝 部 河田氏
境内中央に拝殿があり、後方に茅葺神明造の本殿。拝殿の左右には、別宮の多賀之宮と土之宮が祀られている。
本社社殿を取り巻くように、境内の左右・後方に境内社が並んでいる。
境内左手から、御幸神社、天田神社、蜂須神社、若宮神社、榊森神社、和幣神社、御釼神社、大若神社、鏡作神社、知恵神社。
右手から、岩崎神社、保養神社、酒造神社、日吉神社、祓戸神社、椿本神社、姫若神社、榊原神社、南之神社、福徳神社、白鬚神社、小篠神社、甲之神社、礒之神社、平岡神社、保浪神社、青榊神社、横河神社。
社殿後方には、別宮の月宮と風宮に挟まれて、竈原神社、種木神社、瀧之神社、東羅神社、金刀比羅神社、蓬戸神社、神南神社、鹿嶋神社、繁昌神社。
月宮
崇神天皇の御代。天照大神が倭国笠縫邑から当地へ還幸の際に創祀されたという。
旧号を与佐宮と称し、御山を比沼の真名井ヶ原と呼ぶ。
伊勢外宮の縁起を伝える延暦二十三年(804)の『止由気宮儀式帳』によると伊勢外宮は、丹波国比治真奈井に鎮座する豊受大神を遷座したものとある。
鎌倉時代の『神道五部書』によると伊勢外宮の御饌都神(豊受大神)は、天御中主神・国常立神と同神で、雄略天皇二十一年、倭姫命に天照大神の神託があり丹波国与佐宮に祀られている豊受大神を伊勢山田原に迎えたもの。
享保二十年(1735)の『丹後国加佐郡旧語集』には当社・豊受宮は「人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。
よって当社が、伊勢外宮の元社であると考えられている。
上記、玄松子さまのブログより
http://www.genbu.net/data/tango/geku_title.htm
《丹後与謝海名勝略記》(貝原益軒)
【真井ケ原】
一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。
是謂ゆる與佐の社也。しかるを諸社一覧に與佐の社は与謝郡川森に有とて書て河守今内宮を祝は近代の俗なりと云けり。甚誤なり。
蓋今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なるへし。河守の外宮は山も浅く、内宮に比するに遥以後の勧請と見へたり。しかるをよさの社と指てよさの海の古歌ともひけり。
河守は海浜より四里余大山を隔て山中なり、是あやまりの証據なり。
或曰今の内宮外宮は往古金丸親王(按二帝王系図一用明天皇第六の皇子常麻君の祖也)当国凶賊征伐の時勧請し給ふ所なり。
内宮外宮の間に公庄金谷といふ在所あり。是すなはち親王の家臣也。
親王当国を領しなふゆへ家臣の姓残りて在名となれり。
親王の勧請故あるに似たる乎、豊鋤入姫天照太神を戴て、丹後與佐の宮に到りて四年を経といふ。神跡は今の文珠堂也。
俗伝へて堂内の四柱を天照太神の建立なりと云、是其証據なり。
况真井原と文珠堂と纔三十町を隔て一所なり。是豊受太神自レ天降同座二一所一といふものなり。
是又一説なり。
《大江町誌》
豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれる。祭神は豊受大神、日子番能迩々杵命、天児屋根命、天太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばらになったとはいうやはり大社の様相を留めている。
天照大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水による御饌の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄略天皇の21年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波から豊受大神を御饌津神として伊勢の山田原に迎えたのが伊勢外宮のはじまりであるが、ここ豊受大神社はその元つ宮だと伝えられている。
近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受太神宮鎮座初の地にして、雄略帝21年神託有て翌年勢州山田原に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」には、「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊瓊杵命 右天児屋根命、雄略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣 人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。
神社明細帳には、雄略天皇の二十二年、天皇が神悔を受け、丹波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に移した時、しばらく舟岡山に鎮座したのに始まるとしている。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/motoisegekuooe.html
上記 斎藤さまサイトより
日本一低い分水嶺でつながる氷上回廊、日本海と瀬戸内海を結ぶ古代の重要な船の道であった。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1106mzwkre00.htm
この河川沿いにある元伊勢豊受大神社は、形状から古墳の可能性がある。
女布は丹生☆豊受姫は船で来た。
賣布神社
ひめふじんじゃ
京都府京丹後市久美浜町女布初岡724
女布と書いてニョウ。=丹生
これぞ、丹後の丹だ!
久美浜湾の少し東。
海面が少し上がればここまで湾と河口が広がっていたのかもしれない。
この女布権現山山麓には古墳が集まっている。
黄色い☆印の場所が賣布神社。
由緒 当社の創立は丹後一覧記によると垂仁天 皇(十一代)代川上麻須の勧請に係るものと云う。
伝承に依れば久美浜町谷の足洗井戸があり祭神が 始めて留りし地であり野中、安養寺を経て船にて 女布に着き小字舟處に上陸されたという。この附近に 幟立ての小字があり道路そばに船石がある舟を埋めたという。
延宝三年(一六七六)女布明細帳によれば通称長船大明 神と言えりとあり南方一七〇米の地には布杜神社が あり売布神社を大宮、布杜神社を小宮とよんでいる。
明治五年四月氏子調査に依れば九ヶ村あつたがそ の後七村となり女布、丸山、郷、野中、安養寺、円 頓寺、谷の七村を云う。
元祭は旧九月二日牛の日である。
文化十年(一八一三)久美浜代官塩谷大四郎正義氏の 奉納刀がる。
-社頭由緒書-
豊受姫が舟でこの地へと来られた。
ここにその舟が埋められたという。
神武天皇社があった。
丸い白い石を灯篭の中においている。
阿波の神社にあるおかまごを思い浮かべる…
豊宇気毘売神はどこから舟に乗りこの地へと来られたのか?
ここへ来る道の途中、この近くに海部という地名があった。
海部が丹生を求めて
船に乗せて姫を運んだのではないだろうか?
ウツボ舟に乗る船玉神。船魂。船霊。
この地に坐す大いなる神、豊受の大神は男神だという。
神を祀る巫女、神の女が機を織る羽衣天女、豊宇気毘売神。海人族の女神だ。
農業や養蚕の技術も舟に乗せてやって来たのかもしれない。
丹波道主命の元で集められた巫女達が大いなるこの地の神を斎き祀る。
そういう祭祀形態がこの丹後の地にあった。
その祭祀方法と巫女達は丸ごと新しい大和へ、伊勢へと持って行かれた…
新しい国家形成のために、
この地を守るために
天照の食事係として下った。
大丹後国の地の神は天孫&長の国から来た出雲族=イヅモの海部(阿波の)に従うことを選んだ。
ここにも海部ワナサオフソのルーツの一端が見え隠れする…
賣布神社の祭神をもう一度…
豊受姫命、大屋媛命、狐津媛命
狐津媛命…😳❗️オオゲツヒメが隠れているわ🐱🐱
丹と舟と女神がここでも揃った…
追記 🐱つまつひめのみこと
抓津姫命
つまつひめのみこと
別名
都麻津比賣命:つまつひめのみこと
抓津彦命:つまつひこのみこと
……
建速須佐之男命と櫛名田比売命の御子。 五十猛命、大屋津姫命の末妹神。
抓津姫命と、兄神五十猛神、姉神大屋津姫命の三神は、父神に連れられて紀ノ国に渡られた。
また、建速須佐之男命が全身の毛を抜いて木々とし、 抓津姫命は五十猛神、大屋津姫命と国中を回って植えた。
京丹後市☆乙女神社🌙羽衣天女の里
丹後への旅の2日目、
峰山町に宿泊した私たちは朝一番に比沼麻奈為神社への参拝を終え
そして
乙女神社へ。
磯砂山の山麓
ここは前日の大江の真名井池や丹後国風土記とはまた違う天女伝説の場所。
さんねもという若者と天女の切ない恋物語です。
乙女神社の天女伝説
むかしむかし比治(ひじ)の山の頂き近くに大きな美しい池があり、その池に八人の天女が舞い降りて水浴びをしていました。
それを見ていた三右衛門(さんねも)という里の狩人が、 一枚の羽衣を隠してしまいまったために、天女のひとりは天に帰れなくなっ てしまいました。天女は三右衛門と一緒に暮らすことになり、三人の美しい女児をもうけました。
天女は農業、養蚕、機織り、酒造りが上手で、三右衛門の家はもとより比治の里はすっかり豊かになりましたが、天恋しさに耐えかねた天女は三右衛門の留守中に、「お父様は毎朝何処を拝んで出かけていくの?」と娘達に尋ねました。娘達は家の大黒柱を指さしました。大黒柱の穴に隠してあった羽衣を見つけた天女は、羽衣を身に着けると、駆け戻った三右衛門に「七日七日に会いましょう」と云い残して天に帰っていきました。
…
http://kammuri.com/s1/densyou/01-otome/01.htm
ここにもありました。五角柱の地鎮塔。
乙女神社の下にある記念館にて、
展示絵本原画
丹後七姫とは、
乙姫
ガラシャ夫人
間人皇后
川上麻須良女
(安寿姫)
http://kammuri.com/s2/7hime/densetsu.htm
道の駅で出逢った丹後七姫紙人形はお土産に。。
あれから2ヶ月近くが経ち
この人形を見るたびにあの旅を想う…
数奇な話の始まりに
集まった初対面もありの私たち4人の不思議な不思議な縁の糸
どこから導かれどこへ行こうとしているのか…
楽しかったね♪
面白かったね♪♪
そして、思いっきり不思議な素晴らしい体験。
おかえり…おかえり…
皆でまたここへ帰ってこれたね。
なつかしい声の聞こえた拝殿の背後の山でした。
鬼と呼ばれた人々☆③仏性寺から天の岩戸神社、皇大神社。
由緒(皇大神社編纂)
伝承によればー、
第十代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求め鎮め祀れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良県桜井市)を出御されたのが、いまを去る二千数十年前の遥かな昔であった。
そして、まず但波(丹波)へ御遷幸、その御由緒により当社が創建されたと伝えられている。
皇大神は、四年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、崇神天皇26年(西暦紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。
しかし、天照皇大神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を内宮の元の宮として「元伊勢内宮」、あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。
また、雄略天皇22年7月7日に伊勢度会の山田原に当社が遷宮されたので、それ以後、元伊勢と称したともいう。
毛原〜仏性寺〜真名井池〜日室嶽内宮遥拝所の順に。
城山、日室嶽を真名井池から見る。
この山は禁足地です。
内宮の遥拝所からの日室嶽。標高四二七メートル
頂上付近に、倭姫の磐座と呼ばれる巨大な岩の構造物があるとされ、昭和初期、偶然に山頂に至った(神体山で山道がなく、通常、登山は不可)数名の人たちによってその存在が確認されているという。
近くからは縄文時代のものと推測される祭祀跡が見つかっており、縄文時代には岩戸山が信仰の対象となってらしいという。
天の岩戸神社
由緒
天の岩戸神社は、往昔、地神の元始神天照大神籠居ましし霊地にして真名井ヶ原・真名井ヶ池・楽の堂・産盥・産釜・神楽岩・御座石・鶏鳴岩・鱒池・鮎返りの滝等の地名旧蹟あり。
殊に産盥の霊水は、平常満水することなく或は減水することなく且つ腐水することかってなく、此の霊水は、干魃の際其の霊水の少許を水上に注ぐ時は、如何なる干魃時と雖も神雨不思議に降り来り庶民安堵の胸を撫するにより往昔より今に至るも尚其の慣例絶へざるなり。
鬼と呼ばれた人々☆②京都大江、仏性寺の三日月大明神
三日月大明神を祀る神社が、仏性寺にはかつてたくさんあったとのこのサイトさまよりの情報、
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/bussyojitmi.html
http://www.geocities.jp/k_saito_site/mikagejj2.html
観光案内所で村史をめくって頂き探したところ、
現在確認できる
月読神を祀る神社は
この平神社とあともう1つだけだったのです。
平神社、タイラ
なぜ月読神を祀るこの神社が平神社と言われるのか…
ここが三日月大明神を祀るかつての三日月神社だったのか?
そこに大きな意味がある予感がして、
その平が次へと繋がっていくキーワードとなりそうです。
鬼と呼ばれた人々☆①京都大江の里へ
7月の初めに、急な成り行きで、同行の志が揃い丹後へと向かうことになりました。
(たぶん…いつか、この地域に関係する巫女修行仲間か?と思わざるを得ないメンバーでの旅の展開となり…f^_^;))
古代タニハの国への入り口は大江の鬼の里。
由良川沿いの元伊勢の地。
ご縁で大江観光ボランティア会長さまに大江鬼の里〜元伊勢を案内していただきました。
まずは
観光センターに寄って地元の歴史、地理的文献史学的✨な濃い〜お話をお聞きして、
その後ありえないスピードで最短距離を🚗💨移動。(私の運転のみでは不可能レベルでした)
おかげさまで重要な場所では思うだけゆっくりと過ごし、
必要なポイントはすべて訪ねることができました。(昼食抜きで、峰山の宿泊先チェックインすべりこみセーフ💦)
ご案内頂いた大江をこよなく愛する素晴らしいA氏に深く感謝致します。
大江の仏性寺、毛原の棚田。
毛原のサイケデリックなお地蔵さま群。
仏性寺にある真名井の池(今は井戸)
看板より☆
昔この地に真名井が池という池があって
7人の天女が天下って水を浴びていた。
一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。
天女は良く醸酒を造った。一杯飲めば吉く効く万病悉くいえた。
その一杯の直材を車に積んで送ったところその家豊かに富んだので士形里という名前が生まれた。
天女は豊宇賀能貴命という。又この酒は眼病に良いという伝があった。
ここで思い出すのが、折口信夫の「水の女」の一節、下記部分です。
「 丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮げくうの神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。
この神初めひぬまのまなゐの水に浴していた。阿波のみつはのめの社も、那賀なか郡のわなさおほその神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま真名井式の物語があったろう。
出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこという神もあった。阿波のわなさ・おほそとの関係が思われる。
丹波の宇奈韋ウナヰ神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつはの一面である。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/16031_14239.html
ここにもあるように、この老翁と酒造りの天女伝承は、
阿波の海部郡海陽町にある和奈佐意富曾神社(わなさおうそじんじゃ)につながるお話だと言えるのです。
阿波の海部にある和奈佐意富曾(ワナサオフソ)神社について
こちらも…阿波古事記さまより
「『出雲国風土記』に書かれる阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社は,アワキへは阿波から来た意味であることは,この神人集団の本拠地が阿波国にあったことを示している。谷川健一氏も折口信夫氏の説をひきながら,阿波・徳島県海部郡にある和奈佐意富曾・ワナサオフソ神社を信仰する海人が,水の信仰を背負って丹後にやってきた『丹後国風土記』を紹介している。
また,島根県(出雲)には,和名佐や忌部町の地名もあり,阿波から広がって行った忌部集団の痕跡を示すものである。
このように,阿波の海洋民が海原を越え全国に広がっていったことを示すものが,和奈佐意富曾神社であり,「古事記」に書かれる須佐之男(すさのお)が父イザナギノ大神に命じられた海原の国である。」
第60回
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_06.html
もっと詳しくは…阿波学会さまより
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/33/3326.html
ここに真名井の天女伝承があるということは…
阿波の海部の民がここにやって来た事をうかがわせるのです。
丹後への水の道の途中、
大江の元伊勢、鬼の里に眠る過去の物語…
この旅にてそのつながりが浮かび上がってきたのでした。
ここは月信仰の人々の足跡が残っている場所。
三日月大明神を祀る製鉄部族が居たのがこの鬼の里でした。
三日月大明神とは?
月読神を祀る三日月神社がこの地にあったようなのです。
たたら製鉄の民は目が悪くなるという職業病があったそうですが。
ここの真名井池の水は眼病に効くという伝承が伝わっています。
三日月大明神については次回へ…
天の岩戸神社の奥にある祈りの場。
禁足の聖地
…
ピラミッド?
追記、平神社の扉に麻の紋。
そして、みつは。
三日月田のお酒が今年は出来上がったそうですよ♪
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