案山子と川花さん

案山子を置いてある家は人が住んでいる様子でした。

軽乗用車がある!

歩いてる道は家の横を山影に向かって曲がっていくのですが、

こっちの道がさっきよりマシなのか?…

遠回りでも良いからさっきと違う道で帰りたい…

と先を見ながら案山子の横を通る。

うーん、

それにしてもこういうのって上手に作ってるよな…

ほら、人じゃないよね…っとぐるっと顔を覗き込んだら

同時に

か、お、が、う、ご、い、た。

この速度で   (*゚∀゚*)…

 

おー、びっくりした‼️

同時に、助かったー  (ToT)  🙏

 

「うわ、こんにちは。お人形が座ってるかと思ったからびっくりしました(^。^)

ごめんなさい。

あの、💦💦 この道の先って車通れますか?下に降りられますか?この下の家に車をおいてて…

花神社に行きたくて車で上がって来たんですけど、道が細くて進めなくなったから…」

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おばあちゃんが言うには、この先はすごく遠回りだし、狭くて坂も急だし、今私が来た道がいちばん良い道だと。

うちの若いもんも、下から来る人も皆がその道を使うと。

 

他にも道はあるけど、曲がりがもっときぶいよ。

 

…住んでる人が言うのだから間違いない。

あの道を通るしかないんだ、そうなのかと腹をくくったら妙に落ち着いた。

 

川花さん行きたいん?川花さんはもうすぐそこよ、寄って帰り。

ちょっとまって、私もお参り行きたいから一緒に行くよ、

お賽銭取ってくるから待っといてって。。

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ホッとして見上げた空には見たこともないような綺麗な雲が

…こういうのが竜神雲か⁉︎

 

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 オロナミンCを2本持って出てきたおばあちゃんは

杖をついてゆっくりと一緒に歩きながら、空き家の住人たちの説明をひとつひとつしてくれました。

そこには、山での厳しい現実の暮らしがありました。

 

しかし見える風景のなんと穏やかなこと…東南に開いた空からは温かい明るい日差しがふりそそぎ、

見晴らしは素晴らしく。

やっと景色を楽しむ余裕が出てきて、

私はあの神社に行けることに心がはずんできたのです。

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熊野本宮神と瀬織津姫

案山子のおばあちゃんの続きは次回にて書きます( ^ω^ )

 

瀬織津姫について、一旦こちらを投稿しておきたいと思います。

 

瀬織津姫研究の第一人者、菊池天明氏の著作である

「エミシの国の女神」

ここひと月ほど、氏の論考を少しずつ読んでいます。

今回引用させて頂くのが、こちらから。

http://furindo.webcrow.jp/kumanosin.html

 

 養老二年(七一八)、瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸したところが唐桑[からくわ]半島(宮城県唐桑町)とされる。同半島(舞根地区)には、その名も瀬織津姫神社が現在も鎮座している。

中略〜

 室根神社に、本宮、新宮の2社あり、本宮は伊弉冉命、新宮には、速玉男命事解男命を祀っています。
 本宮は、養老2年(718年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の
分霊を迎えたのが起源で、いまから1281年前のことです。(新宮は正和二年=1313年、陸奥国守護・葛西晴信の勧請…引用者)
 大野東人鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
 天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。

 

 

 

熊野本宮神と、瀬織津姫が同じ!(◎_◎;)??

 

 

先日、母方のお墓まいりにつるぎ町熊野神社へも参拝しました。

 

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徳島県美馬市つるぎ町西山

熊野神社(往古、西山十二社権現、明治初年に熊野神社と改称)

主祭神

いざなぎ命、いざなみ命、速玉男命事解男命、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、ニニギ尊、彦火ホ出見尊、彦波漱武ウガヤフキアエズ尊、みずはのめ神、カグツチ神、埴安姫神ワクムスビ霊神

貞光町史より)

 

 

熊野の神が水の神だということ

その後もう一度、菊池天明氏の論を読んで衝撃を受けたのでした。

 

 

 

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瀬織津姫

この姫神の名前は中臣大祓祝詞に登場します。

 

参考

http://www.shinsendou.com/ooharai.html

 

 

内容(以下wikiより)

大祓詞は、内容から大きく前段と後段の2つに分けられる。

 

前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞け」という内容の文言から始まる。

これは当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁大祓詞ではこの部分は省略されている。

次に、葦原中国平定から天孫降臨し天孫が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られる。

そしてそのような国の国民が犯してしまう罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙し、そのような罪が出たときの罪の祓い方が述べられる。

罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言っている。

後段では、そのような祓を行うと、罪・穢れがどのように消滅するかが語られる。

罪・穢れが消滅する様を様々な喩えで表現した後、四柱の祓戸神によって消え去る様子が述べられる。

 

****

ここに出てくる四柱の祓戸神が、

瀬織津比売速開都比売気吹戸主速佐須良比売の四神である。

 

瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す


速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む


気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ


速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 

 

 

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美馬市つるぎ町熊野神社境内の池

 

 

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徳島県那賀郡那賀町木頭字内ノ瀬56

宇奈為神社(熊野本宮を祀る熊野十二社権現)境内

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この宇奈為神社もなんと紀州湯浅氏勧請なのです。

山の中なのに豊玉姫を祀っています。

剣山を挟んで2つの熊野十二社神社があるのです。

 

 

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 美馬市つるぎ町、鳴滝

この水は木綿麻川へ

 

 

 

 

 

 

山中の瀬織津姫を祀る社

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あれは、春分の日の前日。

はじめは違う場所へと、吉野川北岸を西へ車を走らせていた。

 

午前中にお墓まいりをすませた午後のこと

どうも何か違うという違和感…車を止めてグーグルマップを検索、

今日はこの辺りに行くべき場所があったはず、、

 

可愛い名前を思い出して道を確かめる、

近いけれども最後まで道が無いが💦

…とにかく行ってみることにした。

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これは…💦

この車で行っても大丈夫だろうか…と逡巡しつつ、

迂回路の小学校まで行くことにする。

そして、あと少し行ってみようと坂道を登った途端に後悔…

 

これはあかん道ちゃう?

慌てるがバックで下る事の方が危険…

 

泣きたい気持ちできついカーブ、狭い道幅ガードレールなしの谷底沿いを片方の山側の岩肌に擦る覚悟でローに落としてゆっくり上がった。

もし、ここで、車が脱輪したりぶつかったりしても、私は生きて帰る、車を乗り捨ててでも帰ると、自分に言い聞かせながら先に進んだ。

すると坂を上った先に民家が見えて来てホッとするも、

廃屋ばかり…道幅はさらに細くなり廃屋民家の庭先へ停める…先へはもう行けるとは思えない。

 

車を降り、今の道を絶対に帰りたくないので、山の上に向かう道を確かめに歩いて上がる。

もうあの可愛い名前の神社は行けなくていい、とにかくここから安全に脱出しなくては。。

 

その時に振り返った風景

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この白い屋根の家の庭に車を停めている…あたりは全て廃屋のようだ。

人の気配がない。。

 

さらに奥へと進むと…1軒の家の庭先に私からは背を向けた形で椅子に座っている人がいた!

 

帽子をかぶってスカーフをしてエプロンをしてる…おばあちゃん。

嗚呼…そうか、

これは山里に流行っている案山子人形だわ…

人形だよ…

 

道を聞きたいのに人がいない(T_T)

 

冬眠…再生へ、2017年春の到来。

久しぶりの更新です。

家島に行ったのが11月初め

それから5ヶ月近く、ほとんど半年が過ぎています…

あー、まるで冬眠ですね(*'▽'*)💦

 

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この間、私的な生活上の変化もいろいろ重なりました。

歴史的な興味に対する

視点も変化したかもしれません。。

 

冬ごもりしている間にハマっていたのが、

オルゴナイト✨作成。

オルゴナイトとは、オルゴンエネルギーを生み出す装置…

検索すると色々にヒットすると思いますが、

〜〜〜

オルゴン(Orgone) は、精神医学者ヴィルヘルム・ライヒが発見したとする自然界に遍在・充満するエネルギーのこと。 オルゴンは性エネルギー、生命エネルギーであるとされ、病気治療に有効であると考えられた。日本では東洋のいわゆる気のエネルギーと同じモノと考える者がいる。(wikiより)

そして、その後

開発者、研究者が改良を重ね出来上がったのがオルゴナイトです。
定量のクリスタル、金属、銅線、などを樹脂で固めて作製します。

効能は、、

興味のある方は検索して観てください。

信じるも信じないも、人それぞれ

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

 

こちらでも、また少しずつ作品を紹介させていただきますね✨👍✨

 

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私はこのように、

ブレスレットの浄化に使ったりしています。

(〃ω〃)

 

思えば…

旧のお正月が過ぎて、2月の魚座新月のあたりに大浄化アクシデントがありました。

まぁ、無事に過ぎたから

それも必然だったと思えるのですが、かなり痛い出来事でした。

 

このブログももう書けなくなるかと思ったのですがこちらはなんとか復活です。

結局は自分で招いた出来事だったので💦

友人からは、そうでもしないとできなかったことが起きたんだから良かったのよと、

 

思えば昨年、長年行こうとしてもなかなか足の向かなかった

六甲ヒメ神社へ行ったあたりから

それは伏線だったのかもしれないと、

一緒に行った友人からのメールでした。

 

私もそれは、うすうす感じていました。

 

背を向けて恐れてもいた水の女神、

今までの私の全てをいったん白紙にして向かわなければならない

そのエネルギー体の足跡を、

 

今度こそ正面から向き合う

 

存在を追いかけることになりそうな予感に満ちています。

 

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更新もなく放置だった間もここを訪れてくださっている方、

入口がなくなってどうやって来てくれているのか、

アクセス履歴も

ほんとに少なくなっていますのに、ありがとうございます。

きっと深いご縁の方々なのでしょう。

 

これから新しいアイハヌムの日記へと〜

 

またどうぞよろしくお願いします

╰(*´︶`*)╯♡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

砂漠の女

石造りの建物の全体像はわからない。

ところどころ崩れたように外の空気が漏れてくる。

外には白っぽい乾いた空気と明るい日差しがあるようだ。

 

裾をさばき、ひるがえしながら足早に歩く女の後ろを追いかける。

その石造りの通路は細く狭く、

角をくるくると曲がるように上に向かっている。

 

置いて行かれないように追いかけるのは幼い私。多分当時の私と同じ年齢10歳くらいか。

 

やっと追いついた。

顔を隠すヴェールを深く被り目だけ出しているが、彫りの深い中東の顔立ちの美しい二十歳すぎくらいの女性だった。

長い睫毛のキッとこちらを見すえるような目が印象的だ。

 

捧げ物に布をかぶせた盤を持っている。

神に祀る贄だという。それを毎日ここへ運ぶのが役目だと。

 

 

その贄を捧げている方向を見て、絶句した。

ミイラ化した人が座っている。

その前へ贄を捧げるようだ。

 

毎日毎日、これを運ぶのが私の仕事だった。これからはお前がこの役目を引き継ぐのだよ。

そして私はここに座ることになる。

ここに座って神のことばを伝える役目となる。

お前はこれまでの私と同じように、

次の役目の少女がやってくるまで毎日毎日、贄をここに運ぶのだ。

 

私もいずれこのように(ミイラ化した塊の方を見て)なるであろうけれども、

神のことばを伝えることに何も変わることはない。

(ミイラ化しても伝えられるという意味らしい)

お前は贄を運ぶ役目を果たす事、それだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大宜津比売と妣の国〜そして家島。海人族の足あと

どうも、谷川ウイルスとやらにかかってしまったようです。(^^;)

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谷川健一氏著書内、

阿波ー粟の信仰と海人族の足音より

 

『    淡路は阿波への道である。

淡路から阿波へ渡るには、粟の水門と古く呼ばれた鳴門海峡を横切らねばならない。

私がこの海峡をとおったとき、汽船はかなしげに汽笛を鳴らし、卓上の瓶の液体は波立った。

そして冬の荒れた海の果てに、桃色の夕焼けが凝っていた。

私は今も二千年まえも変わらぬ自然の中に、粟の女神であるオオゲツヒメのほのかに大きな肉体を感じた。

 

阿波への旅は私自身に宿る計り知れないほど古い記憶を遡行することであった。』

 

 ああ、なんとも言えぬこの表現…

 

四国にまだ橋が架かっていなかった頃の記憶がある私には、

この文章に重なり懐かしく泣きそうになる情景が見える。

学生の頃の故郷への帰省時、フェリーの甲板から見える山並みが薄ピンク色の夕闇に溶け込む。

その山波の景色が近づいてくるのを甲板からずっと見ていた。

和歌山から小松島までの2時間のフェリーだった。

海を渡る儀式のような…耐える数時間の終わりに、

やっとまた帰ってきたと、

母の懐へ迎え入れられるような安心感に包まれていた。

 

海を渡る儀式のような数時間…

 フェリーに乗ると乗客はまず自分の場所を確保して寝ていた。

どんなに船が揺れようと、とにかく着くまで寝る…

 

 

 

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家島神社付近で感じた不思議な体感が思い起こさせたのは、この著者の文章だった。

この世とあの世の境を感じるような、なにか。

誰もいないのに、たくさんの目に囲まれてヒソヒソとささやき声が今にも聞こえてきそうな、、

そんな空気。

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谷川氏が阿波への旅で阿南の椿泊を訪れた時のこと。

橘湾入り口近くの椿泊の先にある舞子島を書いた文章の断片が頭の中によぎった。

 

舞子島は埋葬のための島である。

海人族には湾の入り口の島に首長を埋葬する習慣があったようなのだ。

 

『ー前略ー

舞子島こそは海上他界である。その島の砂嘴に死体をさらす風習はとおく古代の海島古墳にまでさかのぼれることを物語っているのである。海中にそそり立つ奇怪な死人の島のすがたは、私を神話の世界にまでつれ去ってゆく。

ー後略ー』

 

播磨国風土記の光田先生も、大きな川の専有権を持つ部族、海と川の支配者一族の祖先を祀る場所が上流にあり、

その川の河口にある島は一族の葬送の場ではなかったかとおっしゃっていた。

 

揖保川の上流にある伊和神社、そしてその河口にある家嶋神社。

その2つのみが播磨国での名神大社である。

その意味とは何だろう。

 

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帰ってきて、この家島行きの写真をFBに投稿すると、磐座ツアーにてお世話になった平津氏より家島についてコメントを頂いた。

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ここよりまだもう少し上に上島まで展望できる場所があったようで。

平津氏のご研究のサイトを拝見すると、

やはりこの家嶋神社付近には怪しい磐座など多々存在するらしい。

 

…これは、もう一度行かなくては。

 

 

 

今後につながる考察のために、

平津様のサイトミステリースポットを添付させていただきました。

この場を借りまして平津様に感謝申し上げます🙏

http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/kounai/kounai.htm

 

 

 

 

 

 

 

この世と神の世の境を歩く…家嶋神社

 

http://aihanum.hatenablog.com/entry/2016/11/15/122520

こちらの続きです。

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延喜式内 名神大社
家島神社
御祭神 大己貴命 少名彦命 天満天神
例祭日 7月24日・25日
沿革
社伝によれば、家島という地名は、神武天皇が大和へ向かわれる途中、当地に御寄港になられたところ、港内が大変穏やかで、「あたかも家の中にいるようで静かだ」として、名付けられたとある。、
家島神社は、この時、天神をお祀りし海上安全と戦勝を祈願されたのが始まりとされている。
又、神功皇后は、三韓門出に際し、天神に祈願されたところ全山がにわかに鳴動したのて、こので一帯をゆつるの山と呼ばれたともある。
古くから、家島の地は、瀬戸内航路の要衝として栄え、万葉歌人達もいくつか歌を残している。
菅原道真公が参拝されたおり、境内入り口の岩場で詩を書かれたといわれ「詩を書き石」と呼ばれて現存している。後に菅公は、合祀されることになった。
当神社は、家島諸島の総鎮守であるとともに、播磨灘を守護する大神様で、更に国家鎮護の神としで承和7年(840)官社となり、醍醐天皇の延喜の制には、式内名神大社に列せられ今日に至っている。
社頭掲示板

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この参道がその…境だと、

帰ってきて調べて知ったが、

なるほどの雰囲気でした。

特に正面の壁のような石段…

そして、上がった所からさらに奥の拝殿への参道が…

 

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由緒

当神社は、神倭磐彦命(即位して神武天皇)御東征の砌り、御寄港室の内の如く静かなるを以て家島と名付け、天神を祀り、皇師の武運長久と海上安全を祈願し給うとぞ、又神功皇后三韓御門出の時天神を祀り給ふに山中ゆりければ、ゆるの山と古歌にもよまれ、朝廷の御崇敬篤く、第四十八代称徳天皇天平宝字八年三月七日揖保郡福井庄家島の高島に支那福州の賊船襲来屯す、時の国司藤原朝臣貞国下知して、戦勝を祈願せしめ、これを撃退神威毫し衰へず播磨を往来する船舶は、風波の難を祈り、崇敬怠る事なし。故に仁明天皇承和七年六月官社と為り、醍醐天皇延喜の制に式内名神大社となる。此の大神は国土を開墾し、海運、漁業、医薬、禁厭酒造の方法を定め、温泉を開発人畜の病に悩むを助け給ふ最も尊き神に坐す故に、大己貴神は大国様、少彦名命は薬神様として崇めたる。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 

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この林の中の道…ここが凄かった💦

これだけの快晴の日なのに、

先がうっすらと白く靄っていて。

 

先へ進むか、後へもどるか

…あの暗い急な階段を降りるのも非常に不安な気分。

行きはヨイヨイ帰りはこわい♪

 

 しかし、進んだ先は素晴らしい景色、ぐるりと360度に限りなく近い見晴らしでした。

 

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淡路島の伊弉諾神宮の方角ははこちらだろうか?

 

安積…の名をあちこちに見かけました。

さすが海人の土地。

 

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創祀当時は天神一座であったが、のちに大己貴命、少名彦命が合祀された。中世以降、創祀の天神を天満天神と誤つて菅公を祀る天満宮と称してきた。これは鎮座地の天神鼻と云う地名にも伺われ、菅公腰掛岩伝説が残っている。

 

 

⭐️⭐️⭐️

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。

古代・中世における社格の一つで、明治に入ってからの神社の格付けにも大きな影響を与えた。

その全てが大社(官幣大社国幣大社)に列しているため、名神大社と呼ばれるのが一般的。

延喜式』巻3「臨時祭」の「名神祭」の条、同巻9・10「神名式」(『延喜式神名帳』)に掲示される。いわゆる式内社

名神祭」には203社285座、「神名帳」には226社313座が記されており、「神名帳」にあって「名神祭」に見えない名神が23社28座あることになる。理由は諸説あるが、不明。

また、「神名帳」には、各社に「月次相嘗新嘗」「月次新嘗」が付され、何も付されていないものも含め、名神大社の中にも三段階の区別があったことが分かる。

名神大社のない国もあるため、一概には言えないが、名神大社に列している神社の中に、一宮、特に歴史的な一宮となっている神社が多いのも特徴。

 

http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1061785977.html