鬼と呼ばれた人々☆③仏性寺から天の岩戸神社、皇大神社。

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由緒(皇大神社編纂)

伝承によればー、


第十代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求め鎮め祀れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良県桜井市)を出御されたのが、いまを去る二千数十年前の遥かな昔であった。


そして、まず但波(丹波)へ御遷幸、その御由緒により当社が創建されたと伝えられている。


皇大神は、四年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりになり、諸所を経て、崇神天皇26年(西暦紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。


しかし、天照皇大神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を内宮の元の宮として「元伊勢内宮」、あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。

 


また、雄略天皇22年7月7日に伊勢度会の山田原に当社が遷宮されたので、それ以後、元伊勢と称したともいう。

 

 

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 毛原〜仏性寺〜真名井池〜日室嶽内宮遥拝所の順に。

 

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城山、日室嶽を真名井池から見る。

この山は禁足地です。

 

 

 

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内宮の遥拝所からの日室嶽。標高四二七メートル
頂上付近に、倭姫の磐座と呼ばれる巨大な岩の構造物があるとされ、昭和初期、偶然に山頂に至った(神体山で山道がなく、通常、登山は不可)数名の人たちによってその存在が確認されているという。
近くからは縄文時代のものと推測される祭祀跡が見つかっており、縄文時代には岩戸山が信仰の対象となってらしいという。

 

 

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天の岩戸神社

由緒

天の岩戸神社は、往昔、地神の元始神天照大神籠居ましし霊地にして真名井ヶ原・真名井ヶ池・楽の堂・産盥・産釜・神楽岩・御座石・鶏鳴岩・鱒池・鮎返りの滝等の地名旧蹟あり。


殊に産盥の霊水は、平常満水することなく或は減水することなく且つ腐水することかってなく、此の霊水は、干魃の際其の霊水の少許を水上に注ぐ時は、如何なる干魃時と雖も神雨不思議に降り来り庶民安堵の胸を撫するにより往昔より今に至るも尚其の慣例絶へざるなり。

 

 

 

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鬼と呼ばれた人々☆②京都大江、仏性寺の三日月大明神

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三日月大明神を祀る神社が、仏性寺にはかつてたくさんあったとのこのサイトさまよりの情報、
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/bussyojitmi.html

 

 

http://www.geocities.jp/k_saito_site/mikagejj2.html

 

 

観光案内所で村史をめくって頂き探したところ、

現在確認できる
月読神を祀る神社は

この平神社とあともう1つだけだったのです。

 

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平神社、タイラ

 

なぜ月読神を祀るこの神社が平神社と言われるのか…

 

ここが三日月大明神を祀るかつての三日月神社だったのか?

 

そこに大きな意味がある予感がして、

その平が次へと繋がっていくキーワードとなりそうです。

 

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鬼と呼ばれた人々☆①京都大江の里へ

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7月の初めに、急な成り行きで、同行の志が揃い丹後へと向かうことになりました。

(たぶん…いつか、この地域に関係する巫女修行仲間か?と思わざるを得ないメンバーでの旅の展開となり…f^_^;))

 

古代タニハの国への入り口は大江の鬼の里。

由良川沿いの元伊勢の地。

 

ご縁で大江観光ボランティア会長さまに大江鬼の里〜元伊勢を案内していただきました。

まずは

観光センターに寄って地元の歴史、地理的文献史学的✨な濃い〜お話をお聞きして、

その後ありえないスピードで最短距離を🚗💨移動。(私の運転のみでは不可能レベルでした)

 

おかげさまで重要な場所では思うだけゆっくりと過ごし、

必要なポイントはすべて訪ねることができました。(昼食抜きで、峰山の宿泊先チェックインすべりこみセーフ💦)

 

ご案内頂いた大江をこよなく愛する素晴らしいA氏に深く感謝致します。

 

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大江の仏性寺、毛原の棚田。

 

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毛原のサイケデリックなお地蔵さま群。

 

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仏性寺にある真名井の池(今は井戸)

 

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 看板より☆

 

昔この地に真名井が池という池があって

7人の天女が天下って水を浴びていた。

 一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。

天女は良く醸酒を造った。一杯飲めば吉く効く万病悉くいえた。

その一杯の直材を車に積んで送ったところその家豊かに富んだので士形里という名前が生まれた。

天女は豊宇賀能貴命という。又この酒は眼病に良いという伝があった。

 

ここで思い出すのが、折口信夫の「水の女」の一節、下記部分です。

 

「    丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮げくうの神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。

この神初めひぬまのまなゐの水に浴していた。阿波のみつはのめの社も、那賀なか郡のわなさおほその神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま真名井式の物語があったろう。

 

出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこという神もあった。阿波のわなさ・おほそとの関係が思われる。

丹波の宇奈韋ウナヰ神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつはの一面である。」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/16031_14239.html

 

ここにもあるように、この老翁と酒造りの天女伝承は、

阿波の海部郡海陽町にある和奈佐意富曾神社(わなさおうそじんじゃ)につながるお話だと言えるのです。

 

阿波の海部にある和奈佐意富曾(ワナサオフソ)神社について

 

 

 

 

こちらも…阿波古事記さまより

「『出雲国風土記』に書かれる阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社は,アワキへは阿波から来た意味であることは,この神人集団の本拠地が阿波国にあったことを示している。谷川健一氏も折口信夫氏の説をひきながら,阿波・徳島県海部郡にある和奈佐意富曾・ワナサオフソ神社を信仰する海人が,水の信仰を背負って丹後にやってきた『丹後国風土記』を紹介している。

また,島根県(出雲)には,和名佐や忌部町の地名もあり,阿波から広がって行った忌部集団の痕跡を示すものである。
 このように,阿波の海洋民が海原を越え全国に広がっていったことを示すものが,和奈佐意富曾神社であり,「古事記」に書かれる須佐之男(すさのお)が父イザナギノ大神に命じられた海原の国である。」
 

第60回

http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_06.html

 

 

もっと詳しくは…阿波学会さまより

http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/33/3326.html

 

 

 

ここに真名井の天女伝承があるということは…

 

阿波の海部の民がここにやって来た事をうかがわせるのです。

 

丹後への水の道の途中、

 

大江の元伊勢、鬼の里に眠る過去の物語…

この旅にてそのつながりが浮かび上がってきたのでした。

ここは月信仰の人々の足跡が残っている場所。

 

三日月大明神を祀る製鉄部族が居たのがこの鬼の里でした。

 

三日月大明神とは?

月読神を祀る三日月神社がこの地にあったようなのです。

 

 

たたら製鉄の民は目が悪くなるという職業病があったそうですが。

 

ここの真名井池の水は眼病に効くという伝承が伝わっています。

 

三日月大明神については次回へ…

 

 

 

 

 

 

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天の岩戸神社の奥にある祈りの場。

禁足の聖地

ピラミッド?

 

追記、平神社の扉に麻の紋。

そして、みつは。

三日月田のお酒が今年は出来上がったそうですよ♪

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=369847336709330&id=198268173867248

 

京都御所 宗像神社

 京都御所内  宗像神社、花山院

 

ご由緒  (ウィキペディアより)

 

社伝によれば、延暦14年(795年)、藤原冬嗣桓武天皇の勅命を蒙り、

皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、

自邸である東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝えるが、

当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられる。

 

東京第は冬嗣の没後、東の花山院と西の小一条第に分けられたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せている。

 

小一条第は藤原内麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅であるが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで小一条第を買ってもらい、

 

そこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためである。


また、邸内の東北隅には天石戸開神も祀られていたようであるが、その由緒は不明である。

 

東京第は嘉祥3年(850年)に清和天皇(生母は冬嗣の孫の明子)が誕生した場所で、

その縁から同天皇の産神・産土神と崇められたようで、

宗像3神には即位の翌年である貞観元年(859年)に正二位が授けられており(その後従一位に昇進)、

同7年(865年)には同じく邸内社であった天石戸開神にも従三位が授けられ、

同年4月17日には特に楯・桙・鞍を奉納するほどであったが、

延喜式神名帳』には登載されずに終わった。

 

その後、藤原時平の代に倉稲魂神を合祀し、

更に天承元年(1131年)に藤原師実から子家忠が花山院(小一条第も花山天皇の皇居とされて以来「花山院」と呼ばれるようになっていた)を伝領して花山院家を開くと、

 

天石戸開神をも合祀して同家の守護神とするようになり、

建治元年(1275年)になって初めて官社に列したという。

 

 

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秦河勝墓所 赤穂大避神社

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赤穂坂越湾に浮かぶ生島にある

秦河勝墓所

【 墓のある生島の樹林は天然記念物 河勝は聖徳太子亡きあと蘇我入鹿の迫害を逃れて坂越に移り千種川流域の開拓に功績を残して八十余歳で亡くなりました。墓のある生島の樹林は大正13年(1924)に国の天然記念物に指定されています。

下記ホームページさまより】

 

 

ウツボ船に乗った秦河勝がここに流れ着いたという

 

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矢車紋の幕が張ってあった。

もうすぐ夏祭り。

 

祭神
秦河勝・天照皇大神・春日大神 

【    http://www.ab.auone-net.jp/~tadeho48/meishokyuseki/ohosakejinjya.html   】

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たくさんの奉納絵馬が…

 

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正面に生島が見える

 

境内社

新宮-聖徳太子住吉大神金比羅大神・海神社
天満神社菅原道真-元の天神山(北之町)に鎮座
恵美須神社蛭子神-元の本町海岸に鎮座
荒神社-竈神-元の東之町に鎮座
淡島神社-淡島大神-和歌山県の加太より勧請
稲荷神社

 

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 梅鉢紋の天満神社

 

 

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橘紋の新宮

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三ッ柏紋の恵比寿神社

 

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船、

あらゆるところに奉納船が…

 

境内神社の梅鉢紋…

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なぜここに天満神社が?と調べたことから

土師氏が、そして野見宿禰が出て、

それが丹後の日葉酢媛命に、丹後の旅へとつながった。

 

土師氏の末裔には菅原氏、大江氏、柿本氏がいる。

土師氏の祖は野見宿禰

はじめて相撲を取った人として有名。

もう一つには、

垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、

土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたという。

 

そして、橘紋。

それがまた次への展開となってつながることになるとは、

まさか、、

この大避神社に来た時には思ってもみなかったのだった。

 

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京都☆秦氏の足跡をたどるように…月読神社

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月読神社
創建.wikipediaより

日本書紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。

朝廷はこの月神に対して山背国(山城国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。

その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。

このほか『山城国風土記逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。

 

 

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月読神社
創建.wikipediaより

日本書紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。

朝廷はこの月神に対して山背国(山城国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。

その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。

このほか『山城国風土記逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の弟神として知られるが、
月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている。
日本書紀顕宗天皇3年2月条における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある。

また『先代旧事本紀』では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える。
これらから、当社祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)と推定される。

また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もある。

関連して、『日本書紀顕宗天皇3年4月条では対馬下県直が奉斎した「日神」の記載があるが、
こちらもまたアマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる。

同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている。