八十島…玉振り姫
FB投稿より
平成最期の大晦日、やっと少しホッとしたひと時、紅白をかけっぱなしにして…
折口信夫〝水の女〟を青空文庫で読み直している。
みつは、ミヌマ、とは何だったか?
水の女とは、新しい天皇の水の禊をする役目の女性と認識していた。
姉の子のウガヤフキアエズを育てた妹の玉依姫もそうだったかも…
しかし、大嘗祭は水の中では行われない。
大嘗祭のための建物を宮中に建て、その中で
新天皇はアラタエという
特別にその日の為に特別の場所で麻植えから始まり育てられ巫女に織られて献上される
忌部の麻布を纏って休む。
神の神霊が新天皇に降りる…
一昨年大ヒットした〝君の名は〟の主人公の女の子の名前にもなった。ミツハは、
口カミ酒を作る神社の家柄の巫女だったが…
ところで、
古代 大嘗祭の翌年に難波の海で行われていたという八十島神事をご存知だろうか?
新しい天皇の即位の神事、大嘗祭についで必ず行われていたという。
難波の海の水辺へ行き、布を振るという
女性神官達が行う重要な神事であったらしい。
武家政権となった時代に消えた神事であるようだ。
ある方との話から、八十島神事について調べていた…
そこで思い出したのが折口信夫の〝水の女〟
ミツハ、ミヌマ、ミマ、、
神事として形に残る、音として言葉に残る…
そこには消しても消し尽くせない鍵🔑が眠っているのではないだろうか。
さて、以下気になった部分を抜き出していく。
宗像三女神が名高くなったのは鐘が岬を中心にした航路(私は海の中道なかみちに対して、海北の道中が、これだと考えている)にいて、敬拝する者を護ったからのことと思う。水沼神主の信仰が似た形を持ったがために、宗像神に習合しなかったとは言えぬ。
🌟そういうことの考えられるほど、みぬま神は、古くから広く行きわたっていたのである。
三瀦の地名は、みぬま・みむま(倭名鈔)・みつまなど、時代によって、発音が変っている。だが全体としては、古代の記録無力の時代には、もっと音位が自由に動いていたのである。
結論の導きになることを先に述べると、みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめなどと変化して、同じ内容が考えられていたようである。地名になったのは、さらに略したみぬ・みつ・ひぬなどがあり、またつ・ぬを領格の助辞と見てのきり棄てたみま・みめ・ひめなどの郡郷の称号ができている。
次投稿へこのまま続けます。
後ろの正面だあれ?藤社(ふじこそ)神社
もうしばらく前になりますが、こちらからの続きで、藤社(ふじこそ)神社へと足を運びました。
http://aihanum.hatenablog.com/entry/2017/10/01/002043
富持神社、ここは磯砂山(比治山)麓のフジヒジクジ系、クシフル系の神社。 北に藤社神社、南に比遅神社、東に富持神社ということになる。
いろいろと習合したようだが、本来の祭神は大宜都姫=豊受大神と思われる。祭日が三月一八日ともあるが、これは藤社の天目一箇神の祭日と同じで、カジヤの祀る神様。 観音寺神名帳の「従五位上 賀茂明神」はこの社かも知れない。
***
いさなご山の北側、場所は比沼麻奈為神社の近く竹野川支流鱒留川の側、鱒留という名の地区にあります。
【地名の由来は、ここでは藤社明神の使いの鱒が竹野川をさかのぼり当地で留まったことによるとも、豊受大神に仕えていた河上摩須郎女が住んでいたことによるともいう。鱒を捕えて食すと腹痛をおこすと言い伝えられていて近年までは誰も鱒を捕えなかったという。かつては実際に鱒は遡上していたようである。
『中郡誌稿』斎藤喜一さまサイトより】
…鱒を食べない、、鮭を食べない、
これは朝来の倭文神社伝承を思い出す
由良川近郊や、京都の知人の家の伝承にもあると聞いた
遥か東北の遠野もそうではなかったか…
伝承の一致する、川を遡上する魚に乗ってやってくる女神は…同じ民たちの祀る神ではなかったか。
海神=川神=山神…
ああ、そうだった
FB友人の投稿から興味を持ち
最近読んだ石牟礼道子さんの著書を思い出した
椿の海の記から
『… 川の神さま方は、山の神さまでもあって、海からそれぞれの川の筋をのぼり、村々を区切って流れる小さな溝川に至りながら、田んぼの畦などを、ひゅんひゅんという声で鳴きながら、狭い谷の間をとおってにぎやかに、山に向かっておいでになるが、春の彼岸に川を下り、秋の彼岸になると山に登んなさるという。…』
天神地祀祭の碑
比沼麻奈為神社そばに船岡神社があり、丹波道主王の館跡と言われる。
船岡神社御由緒には
「丹波道主の館、船岡は府の丘とも。
ここで食物の神、豊受大神を祀って八乙女に奉仕させ善政を行いました。」
このあたり一帯が丹波道主王が善政を行なっていた大丹波国、タニハの国の中心地であったのだろうか
藤社神社は比沼麻奈為神社と共に外宮の元宮とも言われ、豊受大神をお祀りする場であった。
籠神社に伝わる丹後国一宮神秘によると、丹波道主王、彦火明命、別雷神は異名同神であるというが…
天目一箇神が境内に祀られている
拝殿の真後ろに祠があり、足を運んで驚いた
本殿と思われる祠に祀られていたのは
和奈佐夫婦だった
狐も共に…
まるで、後ろの正面のように…祀られて居たのは、わなさ、それはどこからやってきたのかはもう何度も書いてきた。
☆播磨国風土記の中にある履中天皇の時代のわなさのしじみの話、
わなさとは阿波徳島の阿南の海部の海のことだ。
【美囊(みなぎ)の郡・志深(しじみ)の里
播磨国風土記には「昔、履中天皇が国の境を定められたとき、志深の里の許曽(こそ:古代朝鮮語で尊敬の意味)の社にやってこられて、
『この土地は水流(みながれ)が大変美しいなあ』とおっしゃいました。そこで、ミナギの郡という名がつきました。」とあり、続いて、
「履中天皇が、ここの井戸のそばで食事をなさったとき、シジミ貝が弁当の箱のふちに遊び上がりました。
そのとき、天皇が『この貝は、阿波の国の和那散(わなさ:徳島県海部郡海陽町)で私が食べた貝だなあ』とおっしゃいました。そこで、シジミの里と名づけました。」とあります。】
播磨風土記紀行〜古の播磨を訪ねて様より
http://www.harima-united.jp/column/climate/contents000112.html
和奈佐老翁と書かれていたような…
あまりに驚き、写真を撮るのを躊躇った。
手を合わせ撮らせてもらう許可をお願いして、手元だけで一枚撮らせてもらった。
それほど威圧的に感じる空気だった
…
こうやって公にしていいものかとも
思ってしまうのだが、、
五角形の地鎮塔
☆☆☆
かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ?
気になったのが、この蛤のような岩が二つと
三本の杉の木でした。
これは、、亀🐢?
亀はイワクラか
鶴は…
常世の国と橘と…久美浜湾の甲山〜間人の立岩へ
FB投稿からの忘備録としてこちらへも。
兜山頂上に祀られている熊野神社
(熊野神社へと登る途中、赤い土が気になって…)
『ふるさとのむかしむかし』
橘の伝来と木津
但馬の国司、田道間守という人が、垂仁天皇の命をうけ、常世国へ、非時香菓を求めに出かけたということは「日本書記」の垂仁天皇九十年に記されています。
香菓というのは橘のことでミカンの原種である。また常世国とは、南支那方面であろうとの説もあります。
田道間守が、十か年もかかって香菓を持ち帰ったのは今の浜詰の海岸で、函石洪に近い清水岩あたりだと言い伝えています。
この浜に上陸したから、陸路を木津庄地内の女布谷の田神山に神籬を設けられ、無事帰国の神恩にたいしお礼の祭典をあげられました。田道間守はそれより日和田を越えて、熊野郡を横断し、川上村須田で休まれ、それより峠を起して自領の但馬国へ向われたといいます。
祭典をあげられた田神山には村人がその後豊宇気の神を祭祀しましたが、これが現在の式内売布神社の創建であります。
本土に初めて橘が到来した土地であるのでこの地を「タチバナ」と言い 後に橘を音便で読んで「キツ」と言い、「木津」と書くようになったのだそうです。(原話 井上正一)
斎藤喜一さまサイトよりお借りしました。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/kitu.html
ふと目が覚めて、あ、あの神社調べなきゃ
と検索してるとやはり斎藤喜一さんのサイトに当たる。
久美浜の熊野神社〜立岩へ向かう途中見かけた網野町木津の賀茂神社の事だ。
木津には売布神社もある。もうひとつの売布神社はここだった。
木、キ、紀氏とつながる道、それは丹生の道でもあるのか
キツは橘と…
タヂマモリのトキジクノカグノミで飛鳥にも繋がる。
京都の木津川と、伏見の紀伊
丹生、売布、女布、ニョウ、水銀
薬と毒
キツネって
橘、根??
これは思いつき…
そして加茂
六神石神社・六角牛山と風と住吉の神
ちょうど一年前…
下書きのままで忘れてた。
風、渡神、後日また…
天翔けるキツネ ☆アマツキツネ ①
天翔けるキツネとは
尾を引いて空を飛ぶ彗星を意味した。
【アメリカ合衆国アリゾナ州のカタリナ天文台で1974年11月1日に撮影されたコホーテク彗星】
ウィキペディア画像
彗星、ほうき星とアマツキツネ
【中国・殷の卜占を記した甲骨文などの古代の資料からは、人間が彗星の出現に数千年の昔から気づいていたことが分かっています。中国では古代から占星術が盛んで、流星に関する記録も多く、色や飛び方によって10種ぐらいに分類していました。
音を立てて 飛ぶ大流星「天狗(てんこう)=天を駆けるキツネの意」はその落ちる 先で大きな戦乱が起きるとされていました。
日本でも「天狗」という名が初めて登場するのは「日本書紀」の舒明天皇9年春で、流星を「天狗」と記しているが、これは「アマツキツネ」と読み、不吉な象徴としての表現としていました。
鼻が高かったり、カラスの姿をしている天狗は流星を修験者や神仏になぞらえたものだったのです。】
『山海経』より「天狗」の姿
天狗
【 元々天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球(-3〜-4等級以上の非常に明るい流星)はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。
この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている。
中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし、『正法念處經』巻19[1]には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下[2]」とあり、
これは古代インドのUlkā(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである。
日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」
飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。
そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる。】
ウィキペディアより
ほうき星、フサフサと長いキツネの尻尾のような彗星が夜空に輝く
大昔の人々はそれを不吉な印として見ていました。
天翔けるキツネは天変地異の象徴だったのです。
天に現れる恐ろしいキツネを崇め、どうか天変地異の無いように、今年の耕作にも豊かな実りを…と願い祈ったのでしょう。
キツネは彗星
天翔ける狗、犬とも、
古代インドのウルカという流星の名前が天狗となったとウィキペディアには書かれていました。
ウルカ…
ウカ
空海は四国の狐を追い出した
鉄の橋が架かかるとき、追い出されたキツネは帰ってくる
大狐、オオキツネ、おおげつね